#8 「蕗ちゃんがとった、進学・就職以外の選択」ゲスト:玉崎蕗さん(2024.05.20 配信)

本記事は、音声配信『学校行かないカモラジオ』の内容をもとに抜粋・編集しています。内容や状況は配信当時のものであり、現在とは異なる場合があります。

第8回は、ゲストに日野里山フリースクールスタッフの玉崎蕗さんをお迎えしております。今回は、蕗ちゃんが育った地域や高校生の頃に感じていたこと、そして、高校卒業後にふきちゃんがとった選択についてお聞きしています。

玉崎蕗さん
滋賀県甲賀市出身。高校卒業後、進学や就職を選ばず、ボランティアをしたり、 ヨーロッパを旅したり、自由に2年間を過ごす。その後、独学で小学校の教員免許を取得し、2021年に友人とともに日野町にフリースクールを立ち上げる。現在は日野里山フリースクールスタッフ。

【一般社団法人 日野里山フリースクール】
滋賀県日野町の自然豊かな山間にある古民家を中心に毎週月〜金曜日にフリースクールの活動を行われています。対象は小学生〜中学生です。

場所:滋賀県蒲生郡日野町蔵王490
活動:月曜日〜金曜日 9:30~15:00

原点は、豊かな自然のある信楽

井ノ口

もうこれは、私の念願企画でして……。日野里山フリースクールの原点は、蕗ちゃんの生い立ちにあると思ってます(笑)。
では、本題に入っていきます。まず最初に、ふきちゃんが生まれ育った地域について聞きたいんですけど。

玉崎

そうですね。今フリースクールがある日野町の蔵王っていう地域と、同じくらいの田舎やなって思ってます。地元の小学校は、私がいた当時は全校で120人くらい。1学年20人くらいだったと思うけど、今は50人切ってるくらいじゃないかな。
ほんとに、田んぼがあって山があって川がある、ただの田舎っていう感じですね。私の家にはビデオゲームみたいなのもなかったから、外でたくさん遊んで育ちました。山や川が、もう自分の遊び場って感じで。

井ノ口

信楽、私も大好きな場所です。

玉崎

そうそう、4人兄弟の長女なんですよ。弟が3人いて。なので子どもと接する機会は子どもの時からすごく多かったです。
親・おじいちゃん・おばあちゃん・犬と一緒に住んでいたので、8人+1匹みたいな、たくさんの人に囲まれた環境で育ちました。それは、今の自分に生きてるなと思うところですね。

両親は自然が好きで、都会から信楽に移住してきた人たちだったので、家も、滋賀県産の木材を使ったワークショップで建てました。私は、小学校の頃から遊ぶことにしか興味がない子どもだったので、ワークショップに他の子どもたちが参加して、土壁を塗ったりしてる中で、私は一切手伝わず、鬼ごっことかしてました(笑)。自然は、すぐ目の前にあって、入りやすくて、私の世代でこんな自然の中で遊んでた子も珍しいんちゃうかっていうぐらい山にずっといましたね。

井ノ口

学校には通ってたんですか?

玉崎

学校は保育園から高校までずっと公立で通ってました。でも、好きってほどではなかったです。行かなあかんのが当たり前やと思ってたから行ってました。高校は、初めの回でも言ったように、やっぱり違和感がすごくどんどん大きくなっていって。

「なんで受験だけのために勉強してるんやろう」とか
「もっと大事な学ぶべきことっていっぱいあるんちゃうか」とか
「なんでこんな服装のことばっかりに先生は言ってくるんや」とか
従順であることをすごく求められて、それを評価されてる感覚がありましたね。

あとはやっぱり、忙しかったのもすごく嫌でしたね。朝早く家を出て、暗くなってから家に帰ると、自分のやりたいことをやる余裕や時間がないじゃないですか。なので、たまに学校を休んで、家で裁縫してました。ミシンにハマってたので。

高校の進路指導に対する違和感

井ノ口

蕗ちゃんにもらった筆箱まだ使ってます。そのあと、みんなが進学していく中、大学進学しないという選択肢はどんなふうに選んだんですか?

玉崎

高校入学当初から、何も考えてなかったんですよね。でも、高校入ってすぐの学年集会で、先生が大学進学しようと思ってる人〜」って言ったら、私以外ほとんど全員手を挙げてて!それがめっちゃ衝撃的やったんですよ。進路を考える時も「どこの大学に行くか」からしかスタートしなかった高校でした。
私もどうしようかな〜と思ったんですけど、親から
「大学行くんやったら家から通える範囲の国公立にしてや」
とか言われて。
「もうそんなん滋賀大学しかないやん!」みたいな(笑)。
まあ滋賀大もいいけど、別に、毎年100万円とかお金使ってまで行くのもな〜って。あとはやっぱり、時間がないことがすごくストレスやったんで、1回自由になりたいという思いがすごくありました。

だから、行かないって決めてたわけでもなくって。まずはギャップイヤーみたいな感じで一旦行かへんけどまた行きたくなるかもしれんな。くらいの感覚で決めたんじゃないかなと思います。

井ノ口

なるほど

玉崎

あとはね、私たちの共通の友達で、ホームスクーリングとかフリースクールで育った子たちと、高校時代の時にたくさん出会う機会があったんですよ。彼らは、学校行ってないのに、私とか私の周りにいるような、ずっと学校行ってた人たちに比べて、自分の軸を持ってたり、すごくしっかりしてるなっていうのを一緒に過ごすうちに目の当たりにしました。別に学校行かんでもこんな素敵な人に育っていくんや、みたいなことも知って、そこからフリースクールっていうものにも興味を持ち始めたという感じですね。

だから高校行ってる時は結構辞めたい辞めたいって思いながら、でも辞めずになんとか3年間過ごしたっていう感じでした。

井ノ口

卒業後の進路に不安はなかったですか?

玉崎

決まってないことに不安を感じることはなかったんですけど、とりあえず旅がしたかったです。でも、当時英語が、全教科の中で一番苦手やって。高校の時の英語の成績は、多分10段階の2か3ぐらいやったんですよ。

井ノ口

ええ!?今や蕗ちゃんといえば英語のイメージやのに…。

偶然の連続で決まったフランス渡航から、子どもに携わる仕事に就くまでの紆余曲折

玉崎

高校卒業したばかりの時は、ただ「なんか世界見てみたいな〜」という、ぼんやりした気持ちでいました。ラーメン屋のバイトでもしてお金を貯めて、語学留学にでも行けたらいいな…くらいの。

でも、ほんまに偶然、10歳の時に沖縄でたまたま出会った、フランス人と日本人のカップルから「今フランスに住んでいて、子どもが小学生になるから、その子にフランス語と日本語を教えてくれる人を探している」という連絡があったんですよ。

「誰かいい人いないかな?」という時に、私のことを思い出してくれたそうで、何とか連絡先を探し出し、連絡をくれたんです。
そこから一気に話が進み、語学留学の代わりに“オペア”(住み込みで子どもの世話をする制度)としてフランスに行くことになりました。飛行機代・滞在費・食費まで全部出してくれて、さらにお小遣いももらえるという、夢のような展開でした。

フランスでのオペア滞在は2ヶ月間。その後はビザなしで滞在できる残りの1ヶ月間を使って、ドイツ、オランダ、デンマークなどヨーロッパを周遊しました。帰国後は、栃木県の「アジア学院」というアジアやアフリカから来た学生が、有機農業とリーダーシップを学ぶ学校で、3ヶ月間の住み込みボランティアを経験しました。

翌年の夏、再びフランスへ。今度はドイツでワーキングホリデービザを取得しました。ドイツでは現地家庭にホームステイしつつ、現地の日本食レストランとサラダ屋さんで働きながら、語学学校にも通いました。3ヶ月以上通ったけど、正直ドイツ語はほとんど身につかなかった(笑)。

井ノ口

すごい行動力!

玉崎

ある程度お金も貯まり、「今度は暖かいところに行きたい」と思って向かったのがスペイン、ポルトガル、そしてモロッコ。でも、モロッコ滞在中にまさかのロックダウン。飛行機はキャンセル、外出も禁止。完全に足止めされてしまいました。
そんな中、「困っているならうちに泊まっていいよ」と声をかけてくれたモロッコの家族がいて、そこに1ヶ月半ホームステイ。一歩も外に出られない日々を過ごしました。

その後、日本大使館から突然電話が。「3日後にイギリスに向かう臨時便があります。乗るなら3時間以内に飛行機代をを振り込んでください」と。空港までは500km離れていましたが、大使館の方が自家用車で迎えに来てくれました。

イギリス→オランダ→成田と飛行機を乗り継ぎ、ようやく日本へ。飛行機はガラガラで、15席くらいを独り占め。成田に着いた後も公共交通機関を使えず、父が車で迎えに来てくれ、帰宅後は畑仕事をしながら隔離生活を送りました。

井ノ口

私が蕗ちゃんと出会ったのはこのタイミングでした。私もロックダウンで大学に通うことができず、持て余していて、蕗ちゃんと私の共通の知り合いの家の田植えを手伝ってたら、ジャージを着た女の子がやってきて。みんなが「ふきちゃんおかえり〜」って言うから、高校から帰ってきたんかな?と思ったんですよ。そしたらまさかの「モロッコから、おかえり〜」やったという(笑)。懐かしいな〜。
そのあと、教育に携わりたいと思ったきっかけはあるんですか?

玉崎

1番下の弟と、9歳離れてるんですけど、弟の友達が常に10人くらいいる、フリースクールみたいなみたいな実家でした。だから、子どもが好きで、子どもに関わる仕事をしたいっていうのはすごいざっくりとありましたね。フリースクールがしたいっていうのは、高校ぐらいの時から思ってたことだと思います。やっぱりそれは自分自身が学校に対しての違和感があったからだと思います。

で、それをこそほんまに、「ロックダウンでやることないわ。なんか資格でもとってみるか」っていうところで「教員資格認定試験」っていう試験を見つけて、教員資格をとりました。だからコロナ様様ですね。

井ノ口

実際に、子供に携わる仕事をし始めたのは?

玉崎

小学校で、「特別支援員」っていうパートの仕事をしました。それは、当時コロナ禍で学校が3ヶ月休校になってて、学校の授業の進み方が遅れてたんです。だから全国に国がお金を出して特別支援員を雇ったんですよ。その時に近所の小学校の校長先生が、私のことも知ってくれてはって、声をかけてもらったので、行かせてもらうようになったっていう感じですね。教育実習代わりになったなと思います。

まとめ

今回ご紹介したテーマに関連して、カモラジオでは、実際にホームスクーリングやフリースクールで育った方たちの声も取材しています。それぞれのリアルな体験が詰まった回なので、関心のある方はぜひそちらもチェックしてみてください。

蕗ちゃんのユニークな生い立ちを知ることができました。次回はいよいよシリーズ最終回。ふきちゃんに、これからの人生のことや、不登校に関わる大人たちへのメッセージをうかがいます。

この記事を書いた人

Inokuchi Tamakiのアバター Inokuchi Tamaki 学校行かないカモラジオインタビュアー・Flyingエディター兼ライター

学校行かないカモラジオインタビュアー・Flyingエディター兼ライター。
2002年生まれ、滋賀県出身。同志社女子大学卒業。大学在学中に藤原辰史『ナチス・ドイツと有機農業』に影響を受け、ドイツの有機農家でホームステイを経験。人と自然の関わり、政治や教育のあり方に関心を持ち、各地で取材を行っている。

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