彦根市京町のNPO法人「てだのふあ」は、築100年の改装された古民家で運営する不登校の子どもたちのためのフリースクール。2020年に設立され、今では小学生から高校生まで約30人の子どもたちが通います。「すべての子どもたちは成長の芽を持っている」と語る代表の山下吉和さんには、そのことを実感した体験がいくつもありました。今シリーズでは、今のフリースクールの指針にも関わっているという、教員時代に実践していた「生活綴方」について2回に分けて聞きました。
――改めて「生活綴方」について教えてください。
生活綴方というのは、日記指導とはまたちょっと区別したんです。日記はこんな風に書きましょうという学校の形式があるじゃないですか。でも、生活綴方は、生活をありのままに感じたこととか、考えたことを書くわけです。それを本当にそのまま認めるという教育実践でした。

戦前から始まり、戦後も熱心な教師は全国的にたくさんいたんですよ。ただ、先生が忙しくなってきたのを機にだんだんと衰退していきました。毎日30人の子どもたちの日記を読んで赤ペン入れるだけでも2時間ぐらいかかるしね。赤ペンもその子に影響を与えると思うと、そんなにええ加減なことは書けない。
それを授業にするということは、一通りを読みながら、今回は何をねらいにするのか、どういう価値観をこの子達と共有したいのかと考えていく。それから、ねらいにそった日記を取り上げて、教材まで作るとなると、2時間以上の労力がいるんですよね。
実際、授業の中や朝の会、道徳の時間に綴り方を書く時間を持っていました。何人かの日記をテーマごとに取り上げた一枚文集を作って語り合う時間は週に2、3回。「文集授業」と呼んでいました。一枚文集に4人くらい取り上げるとして、年間終わると100枚以上は発行することになります。
僕は、それを退職まで年間150回ほど出していました。結構大変なんですよ。退職の頃には、周りでもやっている先生はもうほとんどいなかったかな。忙しくてね。
――「生活綴方」は、教室においてどんなねらいがありましたか。
生活綴方というのは、子どもが自分の思いを表現するのを助けることもねらいですが、日々をありのままに綴られた日記を読むことによって、教師がその子どもの生活背景を知ることができます。
また、生活の中で起きた出来事に対して思った感情や行動を、クラスメイトと共有することで教室内にいろんな立場の人がいて、いろんな価値観があることを学ぶ機会にもなります。
僕らの先輩らが、部落差別がまだ歴然とあった時に、それはそうじゃない、同じ仲間だということを子どもたち自身が気がつき、クラスの集団としての仲間作りをするための手法の1つとして、どっしりと根付いてたのが生活綴方でした。子どもらの書いてきたものの中から、どういう価値観がみんなで共有すべきものなのかを、1枚文集を使って向き合うわけです。
――具体的にどう子どもたちに影響するのでしょうか。
例えば、学級の中で30人が生活すれば、当然トラブルや揉め事も含めて、いろんな不都合が出てくるじゃないですか。その人間関係の不和を、「今の学級は面白くない」とか「なぜKくんは乱暴なのか」とか、率直に綴ってくる子がいる。そういうことを意図的に取り上げるんですよ。家庭でのことであったり、学校でのことでもあるかもしれないけど、その子から見た世界がどう見えているのかというのをありのままに綴ることで、他の人がその子を理解する手立てになる。
もっと言えば、AさんとBさんの日記を僕が1枚文集に取り上げた。それを周りの子たちが、Aさんの日記から、「普段は思ってないこんなことを感じた」とか、「Bさんのこんないいところがわかった」とか語り合う。質問タイムも設けて、もっとその人のことを知ろうとする。「なんでこう書いたんですか」「この時は何でそう思ったんですか」と子どもたちが聞いて、二人が語る。毎日のように子どもたちの語りを積み重ねていく。「この日記いいね」と僕が言うんじゃなくて、友だちの日記から、「私はこんなことを感じた」と、子ども同士が引き出していく。そうして、お互いを理解し合う関係性をつくるための手段となるんです。
先生と子ども個人と、これだけでも子どもを理解するための手法として意味はあります。でも、それを子ども同士の関係性につなげていく。それを日々積み重ねると、学級が結果として結びつきの強い学級になって、まとまっていく。お互いの価値観を認め合って、仲間作りが進んでいくんです。
――道徳の時間との違いはなんですか。
道徳は、最初にこれという価値観が決まっています。それを、先生の意図として、例えば、「今日は労働について考えましょう。こういう副教材があって、こういう場面ではみんなやったらどんな風にする?」と聞きます。具体的には、おばあちゃんがここにいて、バスの中で立っている、自分が座っていたと、こういう場面に出くわした時、あなたはどうしますか?などと問う訳です。
みんな「助けてあげる」って口では言いますね。実際そんなことできるでしょうか。僕らだって難しいじゃないですか、声かけるのってね。でも、道徳って、最後に「講和」と言って、こういう時にはこうしましょうと先生がまとめるんですよ。上から決められた価値観が押し付けられるわけです。
綴り方は、全く違います。子どもの書いたものを、子ども同士が語り合うわけです。子ども同士がお互いの考えを認め合って、相互理解を膨らましていくのです。
価値観の押し付けではなく、同じことでもAちゃんはこんな風に考えるし、Bくんはそんな風に考えるんだな、みんな違うんだな、と自らが気が付いていく。子どもらって、僕らとは発想違った読み方をするので、そんな見方もあったか、と逆に学ばせてもらうことの方が多いと思っています。
次回に続く