映画「水俣曼荼羅」滋賀連続上映会と特別イベント(みっけ!水俣∞びわ湖)開催のお知らせと協賛サポーターご協力のお願い

 2024年6月1日から9月1日にかけ、碧いびわ湖も参画する実行委員会で、映画「水俣曼荼羅」滋賀連続上映会と特別イベント〜みっけ!水俣∞びわ湖を開催しています。

  • なぜいま「水俣」なのか?
  • びわ湖と水俣のつながりとは?
  • このイベントの目指す先は?

 などを、個人的な想いも含めて綴りました。

 やや長文となりますが、お目通しいただければ幸いです。

村上 悟(碧いびわ湖代表理事/みっけ!水俣∞びわ湖実行委員会事務局)

水俣は「知ってるけど、遠い」場所だった

 「水俣」を最初に知ったのはたしか、小学校の社会科の「公害」の授業でした。

 手足がひどくねじまがり、うつろな目をした子どもの暗い写真。強烈な印象が「水俣」の地名と強く結びついて脳裏に焼き付きました。

 以来「水俣」は、とても恐ろしいことが起こった場所、忘れてはいけない場所、だけど怖くて近づき難い場所、との認識が固定化しました。きっと、多くの方も同じ印象を持たれてきたのではないでしょうか。

 私が水俣に一歩近づいたのは、大学生の頃でした。大学2年だった1996年。学内に貼られた「東京・水俣展」の大きなポスターを目にしました。

 子どもの瞳が大写しになった、印象的な写真でした。環境を学ぶなら、水俣病を知らなければならない、との思いで、東京での用事に合わせて、品川駅前の特設会場に向かいました。

当時の水俣展の図録

 印象に残っているのは、数多くの患者さんの写真でした。そして何より衝撃を受けたのは、緒方正人さんが語られた「チッソは私であった」という言葉です。

 家族じゅうで長年にわたり苦しんでこられた緒方さんが、自分の中にもチッソと同じ加害性があることを直視されていた。その言葉の深さに、強い衝撃を受けたのです。

 しかし、その後しばらく、水俣と向き合う機会はありませんでした。水俣は「知ってるけど、遠い」場所のままでした。

びわ湖のせっけん運動と水俣

 水俣との再会は2009年、碧いびわ湖の代表となり、滋賀県環境生活協同組合の事業を引き継いだときでした。

 碧いびわ湖の原点はびわ湖のせっけん運動。「琵琶湖条例」の制定にもつながったこの運動の背景には、水俣との深いつながりがありました。

 水俣病が”公式確認”をされた1956(昭和31)年、守山でチッソの子会社(日窒アセテート株式会社・守山工場)が操業を開始しました。

 このチッソ守山工場の労働組合で書記長を務めたのが細谷卓爾(ほそやたくじ)氏です。細谷氏ら守山労組は、チッソ水俣工場の労働組合と連帯して、労働者の健康、地域住民の健康、そして地域の自然を守るべく、経営側と対峙しました。

 細谷氏らはその後、滋賀県内の労働組合の連帯づくりにも取り組み、滋賀県労働者福祉対策協議会の設立なども行います。

 そして同協議会での研究会から湖南消費生活協同組合が生み出されました。生産者と消費者が互いに「生活する人」として交流しあい、人間としての連帯を生むことを目指した生協運動を展開しました。

 その生協から生まれたのが、リサイクルせっけんの運動です。赤ちゃんかぶれや手荒れなどの健康被害と、川やびわ湖の水質汚濁の原因となっていたのが有リン合成洗剤。その合成洗剤の使用をやめる一方で、家庭で使い終わった食用油を生活者がみずから回収し、せっけんにして共同購入しようという運動です。

家庭から出された廃食用油の回収の様子

 取り組みが始まった矢先の1977年5月に赤潮が発生したこともあり、運動は大きく盛り上がって、全国にも知られるところとなりました。

 この運動を基盤として、1989年に滋賀県環境生活協同組合が設立され、さらなる事業を展開します。理事長を務められた藤井絢子さん(→プロフィール)によれば、この頃「琵琶湖を第二の水俣にしない」が合言葉となっていたそうです。

 その後、琵琶湖でのリサイクルせっけんの運動は、水俣でのリサイクルせっけんプラントの設立へと、逆に影響を及ぼすことにもなりました。そして、水俣の無農薬みかんの共同購入→購入サイト)は、私が代表についた時点でも続いていました。

 しかし、私個人と水俣の距離は、まだどこか、遠いままでした。

※細谷氏の歩みについては書籍『細谷卓爾の軌跡 水俣から琵琶湖』(→書籍紹介ページ)に詳しいです

わたしと水俣との「再会」

 2021年、私と水俣との距離が急速に近づきました。

 きっかけは、この年の冬に守山で開催された、永野三智さん(水俣病センター相思社)の講演会でした。
 永野さんの著書「みな、やっとの思いで坂をのぼるー水俣病患者相談のいま」(→書籍紹介ページ)を出版された「ころから」の代表が滋賀県のご出身で、元同級生が私の知人でもあったという縁で、開催に関わることになりました。

永野三智さんの講演チラシ

 この本には、水俣病によって受けた身体的・精神的な深い苦しみを、今も多く方々が抱えていらっしゃることが綴られていました。

 水俣病は、決して「過去」の話でもなく「遠い」話でもない、と感じました。また、永野さんの姿勢ー被害者の方々に寄り添いながら、主張すべきはしっかりと主張しつつ、一方で自分のあり方も問い続けられる姿勢ーに強く打たれました。

 「水俣を訪ねたい!」思いが募りました。

 それからほどなく、大学時代の知人が水俣から滋賀へ、私を訪ねてくれました。環境活動に取り組む学生サークルの全国ネットワーク、エコ・リーグ(→WEBサイト)で知り合った仲間の一人で、からたち(→WEBサイト)の大澤菜穂子さんでした。

 学生時代には知らなかったのですが、彼女は水俣出身で水俣在住。お父さんが患者さんの支援で始められた、水俣の無農薬みかんの販売をきょうだいで引きついでいるというのです。

 さらに彼女と会った際、ほかにもエコ・リーグで出会った友人3人が、水俣と近隣地域に住んでいると知らされました。それぞれ、みかん農家、助産師、子どもの学び場をしている、とも。

 機は熟しました。

 翌2022年の春、私は水俣を訪れました。

水俣は美しく、おいしく、深く、あたたかかった

 実際に訪ね、友人たちに案内してもらった水俣は、教科書で固定化した水俣のイメージを、見事に塗り替えてくれました。美しい海。おいしい魚介類と農産品。私たちのまちと同じような、商店街や住宅地。

 約40年近くのあいだ、僕にとって水俣は、白黒の、暗い、怖い、どこか遠い世界でした。でも、実際に訪ね、この目で見て、肌で感じ、鼻で嗅ぎ、舌で味わうことで、水俣が決して特別な町なのではないと、実感しました。私たちと同じように、人々が暮らしているまちなのだと。

 特に、丘から見た水俣湾に沈む夕日の景色が、びわ湖のそれと重なって見えたとき。

 あぁ、びわ湖が私たちにとっての故郷の湖であるのと同じように、水俣の人にとっては不知火海が故郷の海なんだろうと、心から腑に落ちたように感じました。

大学時代の友人が栽培しているみかん園のグレープフルーツ
不知火海から挿す夕日に照らされて

 加えて、相思社を訪ねたり、語り部のお話をうかがったりする中で、水俣の方々の「人間」としての深みや温かみに、強く惹かれるようなりました。きっとそれは、水俣病によって味わい続けなければならなかった深い苦しみや悲しみ、困難と葛藤、数えきれない涙の中で、育まれ、磨かれ続けてきたものだろうと思われました。

 水俣の美しさ、おいしさ、そして、人々の深みとあたたかさに魅了された私の中で、この水俣での経験を、滋賀のひとびとにも共有したい!との思いが、むくむくと大きくなりました。

※ これらの経験が、本イベントの写真展水俣産グルメキャンペーンにつながりました
※ この水俣訪問の経験のあとで、水俣病センター相思社 機関紙「ごんずい」165号(2022年5月)に寄稿させていただきました。相思社の許可を得て期間限定公開しています。「琵琶湖と水俣ー地域を超えて時代を超えてー」(PDF)

企画の発端から今日まで

 そのチャンスは1年半後、思わぬところから訪れました。

 2023年の秋、水俣の友人たちがエコ・リーグの仲間での集まりを水俣で開くというので、再び水俣を訪ねることにしました。すると出発の前日に、碧いびわ湖の理事でもある藤田知丈さんから一報が入りました。

 映画「水俣曼荼羅」(→映画紹介ページ)の連続上映会をしたいという人が高島にいる、というのです。水俣を訪ねる前日という、あまりのタイミングの良さに、運命的なものを感じました。

映画「水俣曼荼羅」チラシ表面
(クリックすると上映会情報に飛びます)

 映画「水俣曼荼羅」は、封切り直後の2022年、初回の水俣訪問の前に劇場で観ました。6時間(約2時間×3部)なんて退屈せずに観られるだろうか、と心配でしたが、さまざまな登場人物の、まさに曼荼羅模様の生き様に惹きつけられているうちに、いつのまにか時間は過ぎていました。

 スクリーンに映し出される方々は「患者」と一括りにされた人々ではなく、固有の名前と意思をもった、自分のすぐ隣にいるかもしれない人々である、と、強く実感しました。

 ぜひ企画をご一緒して、私の暮らす日野の人たちとも一緒に観たい!と思い、参画することにしました。翌日から訪れた水俣でも、前述の永野三智さんと大澤菜穂子さんに協力をお願いしました。

 水俣から帰ったあと、発案者の大藤寛子さん(高島)、前述の藤田知丈さん(米原)、そして水俣曼荼羅のプロデューサーのお一人である長岡野亜さん(京都)と私の4人で、最初のオンラインミーティングをしました。互いの想いの重なりが確認でき、企画が動き始めました。

 その後、約30回以上のオンラインミーティングを重ね、試写会も行って、企画の練り上げ、開催体制の整備、ホームページの整備、プレスリリース、グルメキャンペーンや協賛の協力者募集などを進めてきました。

 そして6月1日、米原でのパネル展を皮切りに、イベント開催にこぎつけることができました。今も、日々連絡をとりあい、週に1回はミーティングを開きながら、企画運営を進めています。

 イベントのメイン期間は、今からの7月〜8月です。(→プログラム日程

写真展 辻田新也×森田具海「琵琶湖と水俣湾 祈りの光景」

「いのちの尊厳」を守りあえる社会をつくりたい

 なぜ私は、これほどまでのエネルギーを注いでこのイベントをしているのか?少し考えてみました。

 それは「いのちの尊厳」を守りあえる社会を共につくりたい、との想いがいま、自分の中に強くあるからだと思います。

 私は、水俣病の問題を知れば知るほど、わたしたちの身の周りでおきている様々な問題が、水俣病を引き起こした当時と変わらない価値観と社会構造に起因していると感じるようになりました。

 たとえば、福島原発事故と、その後の東電や国の対応。
 たとえば、子ども・若者の不登校引きこもりとそれを巡る対応。
 たとえば、パレスチナでの占領と集団虐殺、その報道のあり方。
 たとえば、メガソーラーや大規模風車などの開発による、山林の破壊
 さらには、それらの問題を提起することを、蔑んだり、軽んじたりする言動。

 これらに共通するのは、支配し管理する人々の都合が優先され、支配され管理される側の人々や生き物たちの生命や生活、つまり「いのちの尊厳」が軽視されている、という構造です。そこには、「自分たちはあの人たちより優れている」「人間は動物より優れている」といった差別感情も根深く作用しているように感じます。

 これらのできごとと、水俣病には、根本的な共通点があると思えて仕方ありません。

びわ湖の淀川の源流、高時川の源流地域
2022年の豪雨で生じた土砂流出の現場
20年以上前に行われたスキー場の乱開発の影響で
川の濁りが長期化している

 わたしたちの中にも、支配したい、管理したい、自分の思い通りにしたい、という欲があることを否定はできないでしょう(緒方正人さんが「チッソは私であった」と語ったことも想起されます)。

 ただ、そうした欲が発するのも、そもそも、「管理したりされたりしないと、社会の秩序は保たれない」という社会観と「お金や権力を持って管理する側にならないと、管理される側になってしまう」という社会構造の中で生きているからかもしれません。

 誰かに管理されなくても、人々は互いに調整しあって秩序をつくることができる。お金や権力を持たなくても、自分の想いや意思を表明でき、自分の意志で行動できる。生命の根源であり、すべての人の共有財産である湖や川や大地や森を、誰もが大切に思い、汚したり壊したりすることはない。

 そのような「いのちの尊厳」が守られる社会であれば、わたしたちは、管理したりされたりすることなく、互いのいのちを尊重しあい、協力し合い、分かち合って、物質的にも精神的にも豊かに暮らしていけると思うのです。

 実際に、すでにそうした社会に向けたチャレンジをしている人々は、滋賀にも、水俣にも、たくさんいて、その数は増えていると感じています。

体験を共にして「仲間」をはぐくむ

 オンラインで映画も写真も観られる時代に、映画会を開催したり、写真展やパネル展をすることの意義は何でしょうか。私は「体験を共にする」ことだと思います。

 いま私たちは、移動も、買い物も、エンタメも、多くを一人でできます。一人はたしかに便利で気軽ですが、引き換えに仲間を得る機会を失い、孤独を深めている一面があると思います。

 人間は、一人では弱い動物です。群れをつくり、互いの凸凹を補い合うことで、力を与え合うことができます。いま、「社会を変えることができる」という実感を持ちにくくなっていたり、漠然とした「不自由さ」や「不安」を感じている原因は、第一に、大地とのつながりが薄れていること、第二に、信頼できる仲間が少ないことがあるのではないかと思います。

 水俣には、美しいものや美味しいものと共に、「痛み」や「悲しみ」もあります。滋賀で暮らす私たちの足元にもあります。その痛みや悲しみも分け合うことの中から、自分がほんとうに願う暮らしや社会が、逆に浮かび上がるし、苦しいときにこそ手を携え合える仲間が見つかると思うのです。

 変化に向けたチャレンジをしているひとびとは、いつかどこかで、痛みを感じた人びとだと思います。今回のイベントで、痛みや苦しみの体験を共にする中から、「いのちの尊厳」を守り合える社会に向けて、想いと行動を共にできる人々と出会い、つながりを深めあい、あらたな仲間を「みっけ!」し合いたいと思います。

県庁記者クラブでの記者会見のようす

協賛サポーターご協力のお願い

 本イベントでは、協賛サポーターを募集しています。

 今回のイベントは、運営やホームページ制作、広報物のデザインなどはボランティアで行って、経費を最大限に節減しています。しかしそれでも、印刷費、ゲストの招聘費、資材費、事務費等、総額で130-140万円ほどがかかる見通しです。

 映画の上映料だけでは不足する分を補うため、1口1万円(3600円相当の映画鑑賞権を含む)の協賛サポーターを100口募集しています。7月1日時点で37口の登録をいただいていますが、あと63口が必要です。

 ご協力いただける方は、ぜひ、下記ページから協賛サポーターへのご登録をお願いいたします。
 ご登録いただいた方は、「みっけ!水俣∞びわ湖通信」をメールでお送りし、企画の進捗状況を共有させていただきます。

 SNS等での発信や、チラシの配布直接の声かけなどの広報や、会場運営などにご協力いただける開催協力者も随時募集しております。こちらも併せてご検討いただければ幸いです。(→開催協力者ご登録フォーム

水俣産グルメキャンペーンへもご参加を

 また、水俣産の食品を食べる、あるいは、飲食店で提供いただくキャンペーンも実施しています。

 京都と滋賀の10店舗でオリジナルメニューを提供いただいています。

 碧いびわ湖の共同購入でも、私のお気に入りの、無農薬甘夏ジュース(からたち)と無農薬和紅茶(桜野園)(→購入サイト)を取り扱っています。

 どれもおいしいし、元気が出るものばかりです!

 まずは「食べる」ことから、水俣を身近に感じていただければと思います。

おわりに

 あらためて、今回のイベント開催は、「偶然」のようで「必然」のように感じています。やりたいと思うからやっているのか、やらねばならないと思うからやっているのか。よくわかりません。

 でも、やっていると、なぜか力が湧いてくる。だからきっと、大切な意味があるのだと思います。

 どの催しでも結構ですので、まずは足を運んでみてください。あなたの心に触れる気づきや出会いが、きっとあると思います。

 以上、長文にお目通しを賜り、誠にありがとうございました。

 どこかの会場でお会いできるのを、心より楽しみにしております。

2024年7月1日
びわ湖の日に寄せて

水俣の月浦ふれあい公園(GoogleMap)から見た
不知火海に沈む夕日。対岸は天草の島々。