レポート[Class01]第2回講義

Class01 “経済学のめがねで現代をみる”の第2回講義を、5月11日の夕刻、滋賀大学経済学部(彦根)生協カフェ「ラグーナ」にて行いました。前回にひきつづき、参加者からのレポートをご紹介します。

> 高木あゆみさんから
> 北岡晴道さんから
> 松本茂夫さんから
> 有本忍さんから
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Report

Class01 “経済学のめがねで現代をみる” 第2回講義 2017.5.11

レポート(高木あゆみさんから)

今回で2回目の講義。
今さらな感想だが、「経済学って、学問なんだなぁ。」とひしひしと感じたこの2回。
哲学的でありながら、数学的な側面も持ち、とにかく多面的。こんなにも経済学の中身は細分化されているとは思ってもいなかった。ただのお金・数字の話かと思っていたので、その奥深さに今更ながらに面食らっている。
今回も講義を聞きながら、まるで「とんち」を聞かされているようで、頭の中で、「ぽくぽくぽくぽく…チーン」という音とともに一休さんを思い浮かべずにはいられない状態だった。
そもそも経済学とは何か、が第1回目の講座のテーマだったのだけど、どうやら私はまだそこにいるようだ。
今回登場した「アローの不可能性定理」(それぞれみんなの好みや価値観が異なる集団においては全員が100%幸せになるということは起こりえない、ということが、”数学的に”証明されているらしい。)も、興味深いと同時に、そもそもこの定理が経済学の一部である、ということが、不思議な恐怖感というか、経済学のブラックホール感を感じてちょっと足がすくむ。「経済学、本当に学んでいいのか?終わりはないよ?」と言われているような気がしてくる。
しかし、そもそも経済の定義が、「経世済民=世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)う」なので、それを探求する学問であるとすると、なるほど納得はするのである。そりゃ、価値観なんて時代とともに変化をし続けるし、その全て知り尽くすなんて到底不可能なのだ。
(余談ではあるが、先日、生まれて初めて行った民俗博物館のオセアニアのブースに1mを超える大きくて重そうな石でできた”貨幣”の展示があり、”家を建ててもらったらお礼に差し出す貨幣である”と説明が書かれていた。これを見た私は、「こんな重くてでっかいもんもらってどうすんの!?嬉しいんか!?いらんし!」と思ってしまったのである。それくらい、”価値観”は変化している。)
と、思うと、もう逆に諦めがついていいのかもしれない。

そして、今回の講義のテーマは”競争と独占どっちがまし?”だったのだけど、先述のアローの不可能性定理における「みんなの好みや価値観」(=数字・実数(価格とか量とか)として表しきれない、虚数)の部分が、結局のところモノの価値(”価値観”なのだから当然)を大きく左右しているのだ、ということが繰り返し語られていたような気がする。つまり虚数は競争をコントロール、とまではいかないとしても影響を与えることができる、ということだと思われる。
それをちょっと説明したい。
虚数(モノと人や社会との関係性?位置付けのようなもの?例えば、人々や世の中にとって必要かどうかとか?)は大きな威力を持っているものの、なんといっても見えない部分が多い(虚数=imaginary numberだからね)ので、それを実感するのは容易ではない。食の分野で言えば、ここ10年くらい言われている「トレーサビリティー(顔の見える関係)」や「オーガニック(見た目では分からない、食べてもわからないかもしれないし、証明するのも難しい)」「フェアトレード(児童労働や不当労働ではなく、正当な価格で取引すること。チョコレートやコーヒーでよく知られている。がこちらも証明が難しい)」、最近では食以外のファッション業界でも「エシカル」なども、おそらくこの「虚数」的な位置づけなのだと思う。
この「虚数」が、ものの値段を変えたり、ある意味生産者側を、経済をコントロールできる、たぶん。
じゃぁ、どうやって虚数を生産者側に示して実際に影響を与えることができるのか。
1つは、実際の購買運動である。小さな影響かもしれないけれど、おそらくボディブロー的に効いていくはず。消費者側の価値観の変化を示すことができれば(売れなくなれば)企業も変わらずを得ない。
もう1つは、選挙である。何度も言うようだが、経済の本来の意味は「世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)う」ことで、そうあるはずだしそうあってほしい。どんな世の中であってほしいか、というか自分がどんな暮らしをしたいか、をよく考えて投票に行くことが結果的に経済にも影響を与えることになるのである。

とはいえ、自分がそうやって世の中に、経済に影響を与えていると実感する機会はなかなか持てない。
小さくても、世の中の価値観を作ることに自分も少なからず影響していることがもっと分かりやすく実感できると、おそらくもっとやる気が出るのだろうけど。どうすればそれを実現できるのだろうか?
自分でお店をする?いろんな人を呼んでマーケットを開催する?とても分かりやすいがハードルの高い選択肢だと思われる。
きっと他にもいろんな方法が存在するはずだ。それを探ることも頭に置きつつ、3回目以降の講義に臨みたい。

高木あゆみ


レポート(北岡晴道さんから)

第2回が終わりました。
【競争と独占】というテーマでした。
学校で習ったことなどを掘り起こしながら、頭をフル稼働させて聞いていました(笑)
少しづつ回を重ねるうちに経済の本質とはどのようなものかというのを探して行きたいです。
北岡晴道


レポート(松本茂夫さんから)

今回のテーマに入る前に、前回の講義についてのいくつかの質問に答えていただきました。ひとつは「経済学」そのものについてです。それは科学である「経済学」に、人間の複雑な「価値観」を判断できるのだろうか?という単純な僕の愚問に応えていただいたことになると思います。そもそもその愚問の始まりは、経済学の本来の意味が「経世済民」という中国の古典思想の翻訳からきているという、いわば語源についての解釈を経済学の定義と勘違いしたところにあるようです。
「経世済民」とは、現代でいえば経済学、政治学、社会学などといった分化された学問の総合的な考え方になるのかもしれません。学問などというよりも、もっと現実的な治世方法のことだったのかもしれない。まあ愚問の始まりはともかくとして、本当に問いたかったのは客観的な現象を分析する科学の立場と現実的な立場の関係についてです。中野先生は、ケネス・アロウ―の不可能性の定理という、たぶん僕などが読んでもちんぷんかんぷんの考え方を例に出して、経済学が、或いは経済学者が現実社会の中の価値感に対して判断を下すことは出来ないと結論付けられました。このことは言い換えると、経済学が「学」としてもっている前提をこえることは出来ないということなのだろうか?と思いました。前提というのは科学という客観分析ということですが、この問題については、もっと複雑な経路があって、それを再考しながら経済学の位置づけを考える必要があるのではないかと思います。経済学は人間社会の変遷とともにその在り方を変えているし、また経済学者の個性がその経済学と無関係にあるようにも思えないからです。また機会があれば教えていただきたいとおもいます。
次に陽と陰という区分けについての質問です。ものの見方として、様々な対象を陽と陰という中国の考え方をもとに対称化することにどんな狙いがあるのか?
はしばらく置くとして、ここに区分けされたものがマクロビの世界では反対になったりする場合があるのはなぜか?という質問が出ました。これは区分けの基軸をどこに求めるかによって逆の位置に来ることもあるという現れでもあります。
もともとの中国の陰陽の対称化の基軸がどこに設けられているかは別にして、この世の物事・現象を二項化して考えようとする人間の在り方に対する批判のモデルとして現されたのだろうか?たとえばグローバルということ。科学・技術の進歩によって僕らの周辺環境は世界規模に関係拡大していることは確かです。しかしローカルといわれるように、現実の身が狭い地域に限定されていることも確かです。何か問題が起こった時にどちらを優先するのか?この「課題解決の方法論」としてあげられたのだろうか?対立するもののどちらかを単純に選択するということではなく、その内容をよく吟味して対立を超えたものを創出していく。なんか弁証法の講義のように聞こえますが、市場経済ばかり肥大する現実批判として出されたものなんですか、中野先生。

次に今回の講義の本題へと入っていくことになりますが、それにしてもレジュメにはバッテンばかりが描かれていて、既に拒絶されているような気分になります。このバッテンが「均衡」ということを表すための図らしい。ところで均衡とはなんなんだろう。普通は、つりあいがとれた状態をいうので、需要と供給とのつりあいがとれることを現すのだろうか。均衡があるということは不均衡もあるということなのでその状態の変化を図示して考えようということかなと思いました。経済学、特に近代経済学では市場社会の経済現象、つまり物の生産、販売、購買、等々の動きを、このバッテンの図によって考察するらしい。もちろん市場には<均衡がある>と仮定されている。というよりなければならんという信念があるといったほうがいいだろうか。なければバッテンの図は書けない。書く意味がない。市場経済学の存在根拠がここにあるといえるようにも思いました。「均衡」点とは需要と供給の合致、理想状態を現し、そこにおいて<効率性>が最もよく<社会的余剰>が最大になるということらしい。だからこの点を如何にして創り出すか、その方法を考えるのも経済学の使命ということになるのだろうか。ところで<社会的余剰>とはなんだろう?だれかさんが<お得感のようなもんですか>とおっしゃった。確かにそんなもんかもしれないけれど、どんなお得感なのかをいうのは難しい。「効率的な資源配分」という言い方も分ったようで分からないですね。
この考え方はごちゃごちゃ入り組んだ現実から、たくさんのことを取っ払って現されているので、その結果を現実に還元しようとするときにかなり注意しなければならないのだと思いますが、これを現実的なものとしてイメージ化できないと経済学を学ぶ意味があまりないように思えます。
さて市場では供給側において競争と独占というバトルが演じられることになる。
需要側からみれば大いに競争してくれるほうがいい。どんな競争かというと、よりいいものをより安く提供するという競争です。しかし供給側は独占をめざして競争しているようにしかみえない。他のものが追随できないちがうものをより高く売るという競争。そんな風にかんがえてみると、競争と独占て対立概念なんだろうかという疑問がわいてくる。競争とは需要側から見る欲望であり、独占とは供給側からみる欲望であって、実は同じもののように見えるのです。結局、同一人間が需要と供給に分化し、対立項となってしまうところに問題があるのではないか。しかし市場原理を前提とする経済学ではそれは問題にならない。競争は前提だから。経済学の客観的分析では、独占は<市場の独占>という<衡平性の問題>と<総余剰が小さくなる>という<効率性の問題>なのだそうだ。だからこの問題を調節するために政治が介入することになる。

しかし何か腑に落ちないものがのこってしまうなー。

もう一つ感想があった。
複素数思考ということ。
昔、2乗してー1になる虚数というのが数学にでてきたときにたまげたことを思い出しました。あるわけがないものを、なんで作り出して考えるのか、さっぱりわからなかった。取り付く糸口も皆無の状態で勉強するのは苦役以外のものではなく、すぐ放り出してしまった。今回、複素数思考ということで、それを人間の感情など実数化できないけれども経済に影響をもっているものを複素数として表すということを教えていただいて、虚数の存在意味を知ることが出来ました。たぶん読みこなせないとおもいますが、「複素数思考とはなにか。」という本、読んでみたいと思います。


レポート(有本忍さんから)

中野クラス第2回の感想
今回一番心に残った、引っかかったこと
「協力がないと競争がなりたたない」
「貨幣は距離や時間を超えてつかえるが 一旦分断をしてから交換をするため関係性を壊しやすく、地域通貨がうまくいかないのは通貨に変えるため」
「定量化できない虚数」
「企業は市場か」
対立の中で競争が生まれると勘違いしていた。
上に行くか下に行くかどこに向かうかわからない虚数、でもこれからは数値化できないものに価値を見出し、活かして行くことで生きていくことがよいとおもってしまった。
大事な人との大事な時間を過ごすこと。お金の発生がなくても 自分の経験値が増すこと
虚数は数値にできないだけでなく 誰かに取られないものが多いような気がします。
また命に関わることは 競争ではない方がよい。
水や食物資源などは 独占ではなく 共通して皆で使え、安心して命を守れるようになればいいと思います。
また会社は公器と教えてもらったことがありますが
もちろん企業は市場でしょうが とても危険な要素をたくさん含んでいると思っています。
企業が市場を潰すことも 歪めた市場を作ることもある。諸刃の剣だと。
しかし社会が企業を抹殺できる、どのように選択してどのような常識に変えていけるかも私たち個人の力が実は大きいことを私たち自身が知る必要がある。

質問
中野先生のご存じな中で、もっとうまく活用できる地域通貨というか地域にきちんとお金が回る良い事例が知りたい。
またそれは 似たようなことを小さなつながりから始めることは可能なのか。
(国内外含め)
アローの不可能性定理をお聞きしても
ぼんやりした内容であれば 個人の幸せが社会みんなの幸せと同じだと やっぱり願いたいと思います。
こんな風に 日々働いてることを分割して説明をしていただけると
なるほどと納得したり 会社経営の日々の作業の中との矛盾を感じたりできるので とても面白いです。
第3回も楽しみにしています。
一度少し参加者同士も含め対話できる時間を持てればいいですね。
聞いた講義の質問のや認識があってるかの確認などが共有できるといいのですけど。
せめて その後もう一度動画を見ていただいてからでいいので
もう少し 本当に理解できてるか知りたいと思います。


ダイジェストムービー

てらすくらす Class01 “経済学のめがねで現代をみる”(第2回講義)