レポート[Class03]第3回講義

てらすくらすClass03 “私たち×公共の方程式”の第3回講義を、1月17日に、ほっこりカフェ朴にて行いました。
こちらのページでは、参加者からのレポートをご紹介します。

> 渡部秀夫さんから
> 谷口嘉之さんから
> 根木山恒平さんから

Report

Class03 “私たち×公共の方程式” 第3回講義「新しい公共 ―― 行政の民営化って?」
2017.1.17@ほっこりカフェ朴

レポート(渡部秀夫さんから)
・忘れ去られた日本人

今回初めに受講者全員で共有したいこととして紹介されたのが、「あなた自身の社会(スウェーデンの中学教科書)」という本にある「さまざまなコミューン」の記事でした。実はこの本、8年ほど前に購入したまま読んでおらず、行政学の分野で再会したことに少し驚きました。そうか、この本は領域内なのかと。そう思うのは、「行政学って分野がやっぱりよくわからん。一体なんじゃろ?」というのが第一回目の講義から何処かにずーっとあったということです。

Wikiで調べると19世紀末にアメリカで生まれた政治学の新しい領域と書いてあります。へぇ、知らなかった。政治学と言えば丸山眞男の本を読みたいと思っていました。そうか、トクヴィルとパットナムを取り上げたのなら日本人の政治学者も何人か上げて欲しかったなあ、と今になって思います。

しかしまあ、人々は昔から共同体の運営に悩みあれこれ思案しているものですね。

本に取り上げられている「あなた自身の社会」という題名の根拠と解説、中学生に向けられた課題の連携プレーは素晴らしく、北欧は良いところ感がさらに増す。EDENなんて存在しないとは知りつつも。

かたや自分が住む地域で新春におこなわれる寄り合いと言えば、途切れた関係性を「町内」という言葉で無理矢理つなぎ合わせたようなぎこちなさがあります。かといって都市部のように普段から住民同士が疎遠なんてこともない。ご近所さんから野菜が届くなんてのは日常茶飯事で、お礼も兼ねてついでに雪かきすると、野菜が倍になって返ってくる。

スウェーデンの立派な中学生とは違って、初寄りが一体いつから行われているか調べたこともない私が帰郷して関わるようになった「寄合」から得ている印象は、近代的個人主義と家父長制のお見合いという今すぐ逃げ出したくなるような修羅場。

去年、地元の中学校の文化祭で「ワールドカフェ〜地域で住み続けるために〜」という公開型の催しがありました。そこで出た中学生の意見は「有名遊園地を呼ぶ、企業誘致、マンション建てる」等々、まちづくり系のイベントで大人が出す意見とさほど変わりません

。自分自身が社会を構成する1人なんだという当事者意識を前提に、学生と一緒になって自分が住む地域のことを考える機会を設ける大切さを痛感します。

・公共→新しい公共→ネオ公共→ネオ公共Z

そして今回の本題「新しい公共と協働」へと講義は進みました。

資料に紹介されている総理大臣施政方針演説と新しい公共宣言は当たり障りのない文章で、新しい公共とか絆とか本当こういう言葉遊びが好きだなーと白けます。白けるようになってしまった。日本の選挙活動も同じく生まれてこのかた白けっぱなし。嗚呼、私と政治が遠くなる。

少し調べると、新しい公共宣言を出した新しい円卓会議(新しい新しい鬱陶しい)は2012年で活動を停止。見落としているだけかもしれませんが、引き継がれている様子はありません。もっと身近な市の職員さんとのやりとりでも、「担当が代わって引き継がれていない」なんてことはざらにあります。モチベーションが途切れているなんてことはさらに!

博識家や専門家、企業家に政治家が閉じた空間に集まって一定期間話すことで何かが良くなるなどという物語はもはやハリウッドでも飽きられているはず。最後の飾り付けに集めても無駄にしか思えません。

教育が変われば全てが好転するなどと呑気なことは思わないけれど、多様な教育の在り方を認める教育基本法へと整備され、早くから自分を取り巻く関係性について深く知り学んでいけるようになるって重要だなってやっぱり思いました。

過疎地、現代地方の共通する問題に取り組む一例として、徳島県にある木屋平の活動事例が紹介されました。それを聞いて連想したのが米原市大野木にある大野木まちづくり会社です。自分たちの住む場所は自分たちでなんとかする、と明快な共同体の自恃があり、結成から6年も経たず総務省や全国の自治体から視察が訪れるようになりました。

去年は名古屋から子連れの一家が移住。その家族は半年も経たない内にプレーパークを開設。この早さ、米原市との様々な「協働」も上手くいっている証左でしょうか。

要するに大野木という場が活性していると言い表せるのかもしれません。

NPM x マジ卍

今回の講義を聞いても、私はやっぱり「近代とは何か」というところに落ち着きました。効率主義、合理主義の行く末にあるのは、シンギュラリティに淡い期待を抱いてただ待つだけの受動的姿勢ではないかと思うのです。私は七転八倒、色々な人と関わり合いながら試行錯誤していく方が面白いです。私は研究者ではなく、暮らしの実践者でありたいことを改めて自覚しました。もう耳触りが良いだけの「何だか新しそうな何か(しかも使い捨て)」は御免無用。立場を超えて、名前で繋がる関係、人と人との関係性を取り戻したつながりで暮らしを再生していきたいな。

行政学によってあぶり出される機微を感じ取ることや、細分化されたことで知れる視座を新たに得ることはできませんでしたが、これは自分のキャパシティの問題。受け取る器を作りだす知識や経験値の単純な不足。

蒔いてくださった種を実らせられるようにこれからも努めていきたいです。

レポート(谷口嘉之さんから)

※準備中

レポート(根木山恒平さんから)

※準備中

 

 

レポート[Class03]第2回講義

ほっこりカフェ朴にて

てらすくらすClass03 “私たち×公共の方程式”の第2回講義を、12月1日に、ほっこりカフェ朴にて行いました。
こちらのページでは、参加者からのレポートをご紹介します。

> 谷口嘉之さんから
> 中谷志野舞さんから
> 根木山恒平さんから
写真左)宗野隆俊さん

Report

Class03 “私たち×公共の方程式” 第2回講義 2017.12.1@ほっこりカフェ朴

朴さんのあたたかな空間にて

レポート(谷口嘉之さんから)
今回のテラスクラスでは「遠くなる自治」をテーマとし、上越市の市町村合併に伴う地域協議会の事例が取り上げられた。
合併により旧町村が解散し役場や議会がなくなる一方で、自治体規模は大きくなり、市民の身近にある地域課題をどう取り上げ、解決していくかということが問題となる。これに対し、「自治体内分権」という考え方があり、合併により大きくなった市のなかに小さな規模の区域を設定して、その区域内に意思決定する機関を置く仕組みがつくられている。2004年の地方自治法の改正で規定された「地域自治区」がそれに当たり、上越市では現在28の「地域自治区」が設けられ、それぞれに「地域協議会」が組織されている。
ここでいつものモヤモヤが私の頭の中に発生する。行政の仕組みとしては手薄になった地域社会の課題をこの「地域協議会」で拾い上げることになっているが、市民サイドからはどう見えているのか?「地域協議会」は国の法律に基づき、市が条例で設置した組織である。まだまだ一般市民からは遠く、自分たちの組織と認識はされるレベルではないだろう。個人と「地域協議会」の間に、更に小規模でインフォーマルなグループが必要ではないだろうか。ここの接点が大切である。それは従来、市への意見や要望を取りまとめてきた自治会のような地縁団体だけでなく、テーマ別に活動されている市民団体との関係をどう築くかということも検討すべきではないだろうか。

特製スープをあたためる薪ストーブ

 

レポート(中谷志野舞さんから)

この夏に開催された、てらすくらすサマースクールで宗野先生のプロフィールを見て驚いた。フィールドワーク先の一つとして記載されていた新潟県上越市というのは、私が育った場所だったからだ。結婚を機に滋賀県にやって来て以来、上越市出身というと、東北だっけ?(全国的には新潟県は関東甲信越地方の括り)や、雪多くて大変やね〜など比較的ネガティブな印象を受ける実感が度々あった、そんな地味な地元に注目されるとは、一体どういうことなのか?との好奇心から受講した宗野クラス。第二回目講義で市町村合併の成功事例として、全国でも取り上げられている!という上越市の事例を聞き、驚いた。
実は私、合併前の旧上越市役所で働いていて、合併は当時の市長時代に決まったものの、滋賀に来たことでその後の上越市の動向をまったく知らなかった。当時の市長は国際環境規格ISO14001を市政に導入するなど市政改革を前面に出す一方、急進的なやり方がワンマンと反発を生み、市役所内では市長派と反市長派が対立するなどの混乱があった。その後マスコミも巻き込んだスキャンダルもあり、直後の市長選で新しく当選した市長のもとで実行された1市6町7村の大型合併のその後を知らないまま、時が過ぎていた。
2004年に地方自治法が改正され、市町村のなかに地域自治区を設け(202条4)、地域自治区には地域協議会を置く(202条5)、この地域自治区と地域協議会を上越市は全国初で導入し、2005年の合併から2017年の現在も継続させているという。驚いた。合併前の市政の混乱の印象しかなかったから、合併後もさぞや大変だろう、と勝手に思っていた。
地域協議会とは市長の諮問機関、という位置づけで市長からの諮問について審議・答申するだけでなく諮問を受けていないことであっても自ら必要と考えることを審議し、市長に意見を提出する、すなわち自由審議の権限も有するという。驚いた。つまり住民の声が直接市長に届く仕組みになっているのだ。しかも市側から言われたことだけこなすだけではなく、自分たちにとって直近で緊急性の高い問題(例としてこどもセンターの開園時間の延長があげられていた)を行政のトップである市長に直接届けることもできるという。
自分の暮らす自治体で市長と住民が直接意見をやり取りするなんて聞いたことがないので(市議とのタウンミーティングのような企画はあるが。しかし、それも年に1回)、地域協議会がいかに先進的な取組みかが分かる。
ちなみにこの地域協議会、市長の諮問機関のため市長の一存でその存続が決まるらしいのだが、合併後13年経過してもまだ存続しているということは、一定の成果を上げているということで、地域によっては協議員の選任(4年毎)時に定数オーバーになり、落選する応募者もあったという。地域の特徴(過疎化の進む旧町村区域では協議委員の応募者は減少傾向。ニュータウン開発の進む新市街地や観光地化に熱心な旧市区域では増加傾向など)が数字に表れるのも興味深い。
地域の問題を解決するというと、まず自治会(町内会)が思い浮かぶ。今年、わが家は地元自治会の副会長を努めているのだが(もちろん自主的にやっているのでは無く、順番が回ってきた、しかも役職も既に決定済み、という超消極的理由です)、一年間自治会に関わってみての感想は、自治会は役員の決定から行事などあらゆる執行を慣例どおりにやることに至上命題を置いている、でした。それに比べると地域協議委員は自主応募(定員割れの場合、推薦もあるらしいが)、しかも協議会は月1回以上開催され、仕事を持ちながらの場合、負担に感じることもあるはず。でもそんなデメリットも吹き飛ばす意義が地域協議会にはあるのだろうと思う。
ちなみに私の住む東近江市には、この地域協議会に似たような機能を持つと思われる「まちづくり協議会」なるものが存在するのだが、イベント中心のまちおこし企画や委託事業(施設管理)が多い印象。

クリックして28syokai.pdfにアクセス

また構成員も市民団体やNPO、自治会などであり、既存の団体に所属していないと参加はなかなかハードルが高そう。中には構成員は住民全員(!)と表記している地区もあり、実際の住民の感覚とはかなりかけ離れている印象を持つ。まちづくり協議会自体の位置づけも曖昧であり、市長の諮問機関と明記されている地域協議会との違いを感じた。
もちろん地域の歴史や特徴は一概にまとめられるものではなく、どちらがいいという単純な問題ではないのだが、住民にとって最も身近な地域社会の窓口である自治会が年功序列、輪番制、半強制的加入と高額な自治会費の納入、生産性の無い議論と行事で形骸化し、今や死に体なのははっきりしている。それでもかろうじて存続しているのは、惣村や宮座の風習が強く残る滋賀県の風土も強く関係していると思う。しかし、伝統的な家や村を守る若い世代が減少し、新しくやって来た新規の住民が増えている現在、過去の貯金でつないで暮らしていくことは、近い将来にきっと破綻するのが目に見えている。誰もが暮らしの意思決定に関われる、身近な地域社会に関わる選択肢を増やすことは、わたしたちにとって急務であると思う。
ちなみに上越市の地域協議員は20代、30代も活躍しているという。機会があれば、そういう方たちにお会いし、話を聞いてみたいと考えている。

 

レポート(根木山恒平さんから)

※準備中

京大農薬ゼミの省農薬みかん

活発な意見交換がありました

レポート[Class03]第1回講義

会場からの眺め(琵琶湖)

11月4日に、滋賀大学彦根キャンパスにて、Class03 “私たち×公共の方程式”の第1回講義を行いました。こちらのページでは、参加者からのレポートをご紹介します。

> 谷口嘉之さんから
> 根木山恒平さんから
写真(真ん中)宗野隆俊さん

Report

Class03 “私たち×公共の方程式” 第1回講義 2017.11.4
てらすくらすClass03“私たち×公共の方程式”(講師:宗野隆俊/滋賀大学経済学部教授)

レポート(谷口嘉之さんから)

「公共」って何かわかりにくい…。てらすくらすClass 03の1回目では「公共」という言葉や関わり方を中心に講義や意見交換が進んだが、私は未だモヤモヤした感じを残しながらこのレポートを書いている。

まず今回の講義のキーワードであった「公共」への政治的関与、市民的関与(さらに市民的の中に自発的なものと強制的なもの)という話は理解できるし、実際にそうなっていると思うのだが、肝心のその対象である「公共」の実体が見えてこない。

役所、学校、図書館、公民館、病院、道路、公園…等、いろいろな公共施設やインフラがあるが、それ自体が「公共」というわけではない。法律や条例などの決まりごとや仕組みがつくられてもそれだけでは「公共」にはならない。周囲の市民がそれらにどのように関わるかによって「公共」が形づくられると考えればどうだろうか?それぞれの人が自分の立ち位置から、思い思いにそこに関わろうと手を出し合った間にあるのが「公共」の形になるのかもしれない。手を出す人が多ければ、「公共」は広がり、密度が上がって周囲の人に実感される。関わる人が少なければその逆で存在が希薄になる。「公共」という実体があるわけでなく、みんなの関わりが「公共」そのものかもしれないと考えた。更には自分の立ち位置をいろいろ変えながら関わっていくと「公共」の形はその時々に姿を変え、柔軟で強いものになるのかもしれない。

冒頭のモヤモヤは解消されていないが、今回のてらすくらすの講義が進む中で何か発見できそうな、理解が深められそうなワクワクとした感覚もある。
今後の講義も楽しみである。

情報交換する谷口さんと宗野さん

 

レポート(根木山恒平さんから)

てらすくらすClass03“私たち×公共の方程式”がいよいよはじまりました。
全4回をとおして、「人びと(私たち)が、いかに『公共』にかかわることができるのか」を学んでいきます。第1回講義は、講師の宗野隆俊さんから2つの話題提供(講義)をいただきました。

☆前半は「公共のことがらにどう関わるか―『市民的関与』から考える」という話題。
いま、日本だけでなく、先進国と言われる各国にて議会選挙(国政)の投票率が低下していて、政党や議会への信頼度も下がっているそうです。(日本だけの現象ではないんですね~)「宗野さんからは「代表制デモクラシーという枠の中の公式の政治過程とは別の形で公共のことがらにアプローチすることも可能ではないか?」という問題提起がありました。

そう、私たちは、ついつい「選挙に投票する」、「立候補する」、「候補者を応援する」と言ったことを公共への関わり方だと思ってしまいがちですが、宗野さんによると、そうした伝統的な政治的関与(political engagement)以外にも、路上でデモをしたり、SNSで政治的な議論をするなどの新しいタイプの(非伝統的な)政治的関与もあるし、さらに、地域コミュニティの活動に参加することや、ボランタリーな活動、スポーツクラブへの参加や教会などの慈善活動に参加することもまた、私たちが「公共のことがら」に関わることなんですよ、と教えてくれます。これらを「政治的関与」と区別して「市民的関与」(civic engagement)と言います。

宗野さんが研究されているアメリカ社会には、開拓期(1800年代)以来の伝統として、私人と私人が何人か寄って公共のことがらを担うという習慣があるそうです。

この感覚は、日本社会で暮らす私にとっては、ちょっとしたカルチャーショックでした。みなさんは、どう感じられますか?
「私」という個人が気づいた公共の課題に対して、「市役所にどうにかしてくれ」と陳情するのではなく、隣にいる「あなた」という個人や、さらにほかの人びと(個人)に声をかけて協力して、自ら課題解決にあたるという姿勢です。

「おや?」っと思われた方もいるかもしれません。私たちが暮らす滋賀には、500年以上つづくと言われる「惣村自治」の伝統があります。かつての集落において人びとは「結」とか、「講」といった言葉がいまに残っているように、村人相互の助け合いで村のさまざまなことがらにあたっていたと言われています。

☆つぎに後半の話にうつります。
後半は、「公共のことがらに関わる民間の事業主体―サンフランシスコの住宅問題とコミュニティ開発法人の活動」という話題提供をいただきました。

宗野さんが研究されたアメリカの西海岸、カリフォルニアの都市サンフランシスコでは、1960年代に都市再開発に対して住民の反対運動があり、そうした運動を起源として「コミュニティ開発法人」という民間の非営利組織が、中低所得世帯向けの住宅供給事業を担い、同時にコミュニティの中での住民の懇親や助け合いを支える役割を担っているそうです。さらに、近年においては、こうした住宅開発事業にあたって、民間の金融機関からの資金調達など、とても洗練されたビジネスノウハウを取り入れた事業経営が実現しています。また、連邦政府や州政府などが、コミュニティ開発法人に対して補助する制度が立法されているそうです。

☆宗野さんからの話題提供のあとに、参加者との意見交換を行いました。ある参加者からは「滋賀の地域社会にも自治会というものがあり、行政は自治会の組織率で自治の程度を表現するが、実態は旧来型の窮屈な気風が色濃く、住民が自治会の中で自発的に発言したり、行動したりすることはあまりない見られない」ということでした。これに対して宗野さんからは「欧米の『市民社会』においては、ひとりひとりの市民が、自ら考え、他者と対話し、行動するための『心の態度、作法』が涵養されていることが求められるが、日本社会において、それがなされているかどうかが問題」という応答がありました。

また、別の意見では、「日本の憲法では、政府が国民の最低限度の生活を保障する責務が規定されていて、それに基づき国や県、市町が役割を担っている。言葉たくみに、政府の責任を放棄して、国民に押し付けることがあってはいけない」と言ったご意見もありました。他方で「アメリカでは、なぜ民間組織に任せるのか?どこにメリットがあるのか?」といった疑問が出され、宗野さんからは「政府が直接やるのではできない専門性や、市民のニーズに応じた運営というものができるのが、コミュニティ開発法人の強みだと思う」という応答がありました。
この辺りの問いには、結論を得たわけでなく、参加者の間でもモヤモヤとした雰囲気が残りました。これは第3回講義「新しい公共―行政の民営化って?」とも通じるテーマであり、「今後の講義の中でひきつづき意見交換していこう」ということになりました。

そんな感じでスタートしたてらすくらすClass03“私たち×公共の方程式”です。残り3回の講義の展開がとても楽しみです。

 

 

(参考文献)

『市民的関与とはなにか』(論文)
宗野隆俊 /Takatoshi Muneno
滋賀大学 経済学部 / 教授
http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/Ronso/412/muneno.pdf