レポート[Class01]第3回講義


Class01 “経済学のめがねで現代をみる”の第3回講義「自由貿易ってどうよ?」を、6月8日の夕刻、滋賀大学経済学部(彦根)生協カフェ「ラグーナ」にて行いました。前回にひきつづき、参加者からのレポートをご紹介します。

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> 高木あゆみさんから
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Report

Class01 “経済学のめがねで現代をみる” 第3回講義「自由貿易ってどうよ?」 2017.6.8


レポート(北岡晴道さんから)

「貿易赤字は決してマイナスな事ではない」や「中国の経済発展は脅威ではない」という言葉を聞いて、概念が凄く変わりました。
今までの情報の入手に少し偏りがあったのかもしれなくて、これからはテレビなどからではなく、「知るため」にどのようにその事実を知るか、どのように情報を自分のものにするのか、模索して行きたいです!
晴道

レポート(高木あゆみさんから)

今回もまたまたモヤっとして幕を閉じたてらすくらす。
一つわかったのは、私は効率性を求めるのが苦手だということ、もう1つ分かったのは、語る規模が大きくなればなるほど、はてなマークしか浮かばなくなること、である。
何て身勝手な感想だろう、と自分自身でも思うのだが、高校時代に物理の授業がどれだけ教科書を読んでもさっぱり意味がわからなかったのと同じくらい、”効率性”と”規模の大きな世界”はどうにもピンとこないようだ。

理解できなかった部分は置いておいて、今回の講義を受けて私なりに”(自由)貿易”について考えてみたいと思う。
まず、言葉の面から。貿易は英語でTrade(トレード。)。しかしこのTradeという言葉は”交換”という意味でもある。規模は全然違うのに、同じ言葉で表される。つまりは、貿易というのは”規模の大きな交換”という感じになる。
日本という島国で暮らしてきた農耕民族の感覚と、大陸で暮らしてきた遊牧民族の感覚の違いもあるのかもしれない。
日本では貿易というと、海を渡るのでハードルが高いけど、もともと移動するのが基本で陸続きだと交換と貿易の境目はあまりないのかもしれない。

もう一つ面白かった、というかしっくりきたのが、交換(Trade)の利益に関する話。
例えば、海の近くに住む男がいるとする。魚釣りに行ったとして、魚釣れたら、1匹目嬉しい。2匹目も嬉しい。3匹目ももし家族がいてたら嬉しい。その後、4匹、5匹、6匹とどんどん釣れた数が増えたとしても、まぁしばらくは干したり色々加工してみたり、と嬉しいものだが、あまりにもたくさんになると、”嬉しい”を超えて、”ありがた迷惑”的な状態になってしまう。釣り終わってたくさんの魚を見て途方に暮れる。でも、プランクトンがいっぱいなのかなぜだかたくさん釣れる。
しかし、自分にとってはいっぱいすぎてもういらない状態でも、別の誰かに渡すと、その誰かにとってはまた嬉しい”1匹目”になる。”おすそ分け”がお互い嬉しい仕組みはここにある。
この時点ではまだTradeではない。
一方で山に住むキノコ採りの名人がいたとする。山にキノコ採りに行ったとして、キノコが採れたら1つ目のキノコは嬉しく、数が増えるにつれ嬉しさを増していくのだが、ある地点で、嬉しさは増えることがなくなる。しかし、別の誰かに渡すと、その誰かにとったら嬉しい1つ目のキノコになる。
その誰かと誰かが、ちょうど条件が合致した時に、お互いに嬉しい”交換”が成立することになる。
おそらくこんな感じだ。
海の男:「魚、いっぱい釣れたんやけど、いらんか?」
山の男「お、それは嬉しい。ほなかわりにキノコ、いるか?キノコうまいんやけど、毎日キノコばっかりやで、そろそろちゃうもん食べたかったんや。どうや、交換せんか?」
海の男「そりゃえぇのぅ。キノコなんて珍しいもんありがたいことや!こっちは毎日魚ざんまい、そりゃもちろんうまいんやけど、毎日はなぁ〜。喜んでもらえるんなら嬉しいわ。じゃぁ魚とキノコと交換や!」
山の男「やったー!」
(妄想終了)
これが、もっと規模が大きくなって、国を跨いで交渉したりすることになったら、「貿易」になるのだと思われる。
しかし、なんとなく、なんとなくだが、現代社会で一般的に行われている「貿易」や「取引」のイメージは少しちがうように感じる。なぜだかそこにはネガティブイメージがつきまとう。実際はそこまでネガティブじゃないと思われるのだが、どうしても海の男と山の男のような純粋に「嬉しい」交換ではないような気がする。それは何か。
おそらくそれは、貿易もしくは交換が行われる2者の関係性が、海の男と山の男はgive & giveの、そして一般的な貿易はgive & takeであるからかと思われる。”あげる”前提か、”もらう”前提か。「あれあげたら、なんかもらった。/なんかもらったから、あれあげた。」か、「あなたのこれが欲しいから私はこれをあげる。/これあげるから、それください。」か。
国単位だと、give & giveはきっと難しいんだろうと推測する。国単位、まではいかなくとも、規模がでかくなればなるほど、どうしても一律したサービスを提供するためにはgive & takeの必要性が出てくるのだろう。そしてgive & takeだからこそ、ある意味平和が保たれているのかもしれない。
少し余談にはなるが、この感覚の違い、ドネーションスタイル(サービスを受ける側が価格を決めて支払う仕組み)で体感できるのだ。私は過去に何度か、実験的にドネーションスタイルで料理を提供・出店してきた。普段の買い物だと、お金を支払っているという感覚で、あまり”交換している”という感覚はないと思われる。しかし、食べる側が値段を決めるとなると、不思議と一気に「交換」感が増す。売る側も、同じだ。しかも、先にお金を置いてから食べる量を決めるか、食べる分を先にとって食べてからお金を置くか、で感覚が変わる。提供する側も、先にお金をもらうか、あとでお金をもらうか、で感覚が変わる。だからなんなのか、という結論はまだないのだが、ここに消費者余剰・生産者余剰・社会的余剰を増やすヒントがあるのではないかと思っている。

本当は、講義の途中(第2部の質疑応答タイムでのバブルが起こった仕組みの説明あたり)から、”お金って増えてるってこと?(増えているとしか考えられない)”という壮大な思考テーマが生まれ、日本の貨幣の歴史について調べてみると興味深い点が多くてそちらも書きたいところだが、あまりにも長くなるので、今回は触れずにおく。
経済学のブラックホールにどんどんはまっていっている気がするのだが、いつか抜けられる、もしくは攻略できる日は来るのだろうか・・・(不安)

レポート(山下智広さんから)

今回の講義に参加して、回を重ねていくにつれてどんどん頭がほぐされていく感じがしました。少しずつ講義の流れや、先生の言いたい事、みんなの質問が前回よりもスッと入ってくる感覚を感じました。
講義の中で分業について学び、今までは分業というのは良い点しかないように思っていたけど、良くない点にも眼を向ける事ができました。
他にも貿易赤字は必ずしも悪ではないなど、言葉のイメージや、先入観によって自分の視野が狭くなってしまっている事に気づきました。
経済学は時代によって答えが変わる、と先生がおっしゃっていました。
今の答えに近づくには過去、現在、未来を多角的な視点で捉えて上手にバランスをとっていく必要があると思いました。
回を重ねて色々な視点を身に付ける事ができそうで楽しみです。

レポート(松本茂夫さんから)

今回のテーマは自由貿易についてですが、数年前からTPPの話が浮上して、それが僕らの仕事や生活に大きく関係するということで、このテーマについては関心度が高いと思います。現在ではアメリカがそれに参加しないという方向ですが、日本は是非ともTPPを推進したいといういことのようです。この問題については、賛否両論あるわけですが、今回はその基軸となる貿易についての経済学的な分析・見解を教えて頂くことになりました。
まず<貿易>とは英語の<trade>の訳ですが、他に<交換>とか<取引>といった訳もあるようです。僕のイメージでは貿易とは交換の一種には違いないが、僕らが一般に描く<交換>のイメージとはどこか、何か違うような気がします。そこの違いをまず明らかにしたいと思いました。
アダム・スミスは利益や富裕を生み出す<分業>の起因について、「人間の本性上のある性向」つまり「ある物を他の物と取引し、交易し、交換しようという性向」の必然的な帰結だと言っています。ただその性向が「人間性にそなわる本能のひとつ」なのか「理性とことばという人間能力の必然的な帰結」なのか?その問題は当面の研究主題には入らないとその探求を打ち切っています。たぶん<交換>という関係性の底には僕たちが言語によって成り立っているということと深い関係があるのでしょうが、スミスのいうようにここでは経済現象の分析前提とするしかありません。
分業の起因として交換があり、交換の拡張が分業を進展させ、分業の進展が更なる交換を促すというその運動において人類の経済は拡張・拡大してきたようです。僕らは交換というと、まずその基本構造を個人対個人というレベルにおいてイメージします。漁師のおっさんと杣人のおっさんとの交換といったように。自分にとって必要以上の量の魚を獲る漁師は、山でたくさんのキノコを取る杣人と知り合って、お互いの余剰品を交換しあう。そのことによってお互いが今まで以上の<豊富>を手に入れることができてうれしい。申し分のない原理です。しかしその原理は、いつしか交換のための分業や分業ゆえの交換となって拡張・拡大運動していき、漁師と杣人の間には、様々な人や職や仕組み、そして野望も介在し、複雑な構造となって僕らを翻弄していくように感じます。確かに<豊富>になった。しかし幸福感はあまり湧いてこない。そんな現在の生活実感が、自給自足的な生活を渇望させたり、ミニマリストという生活スタイルを選択する原因になっているのかもしれません。ただそういう実感も<豊富>性ゆえの実感であって、交換や分業を否定することはできないでしょう。

交換のレベルが大きくなると貿易ということになる。しかし貿易という交換には国家という壁があって、交換する経済主体に制約をかけている。だからリカードの比較優位説も十分には機能しないことになる。経済学的な効率分析では比較優位にもとずく自由貿易は高い利益をもたらすらしい。しかし国家は、関税措置や産業助成金などで自由貿易を阻害している。国家内部に様々な利害関係があること、また歴史的に形成されたその国家の文化的な基盤に影響が出る恐れがあるなどの理由があるから。<自由>貿易の自由とは、そういう国家という枠からの自由を意味するのだろう。
ところで僕の職とする農業もTPPなどによって自由貿易化されれば多大なる影響が出るとされている。ただその影響のシミュレーションは経済学者によって様々です。農産物の自由化は、多くの農業を壊滅させ、農業のはたす多面的機能もなくすことによって、国家、国民は多大なる不利益を被ることになるという経済学者もいれば、これをチャンスに付加価値の高い日本の農産物を輸出すれば勝ち残れる可能性は十分あるという経済学者もいます。どちらの予想もごもっともと思え、しかたないから僕はなるようになるさと思って喘いでいるのですが、自由と国家というちょっと位相の違う問題をそこに発見し、途方に暮れてしまいます。人類の経済活動はグローバル化し、物も人も金も世界中が血管のようにつながり、血液のように流れているという。にもかかわらず、国家はなければならないようにある。更なる貿易の自由化は、フラットな社会、均質な世界を形成していくかもしれないけれど、そのことによって<国家>として現れている人間の問題を解決していくことができるのだろうか?

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