レポート[Class01]第1回講義

4月13日に、滋賀大学経済学部(彦根)生協カフェ「ラグーナ」にて、Class01 “経済学のめがねで現代をみる”の第1回講義を行いました。こちらのページでは、参加者からのレポートをご紹介します。

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Report

Class01 “経済学のめがねで現代をみる” 第1回講義 2017.4.13

レポート(北岡晴道さんから)

今までのイメージや認識が大きく覆るような
そんな衝撃があった第1回の講義でした。
高校2年のこの時期に大学の先生からお話を
聞けたことはとっても貴重な経験になりまし
た。第2回が楽しみです。
北岡 晴道

 

レポート(高木あゆみさんから)
(写真)shopmadreのブログより

⇒ここでは、高木さんが書かれたレポート記事(shopmadreのブログ)の中から、一部を抜粋して掲載させてもらいます。

“ で、一回目。
テーマは、”そもそも経済学ってなに?”
経済。

たぶん、割とたくさんの人が、経済はお金のことやと思う気がする。少なくとも私はそう思っていた。
世の中の、お金の動き・流れ、それが経済OK

が、どうやらそれはちがうらしい。
ちがう、というか、それも経済の一つであるけど、”経済”というものの、ほんの一部分にしか過ぎない。

じゃぁ、そもそも一体経済って何やねん、というと、
”経世済民”= 世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)う
を略したのが、経済のほんまの意味なんやってさ

お金、関係ない。
どちらかというと、仕組み?概念?

人が(”喧嘩をしたとしても”だと個人的には思う)にこにこ暮らせるようにするためにはどうしたらいいのか、
を問うものなのかな、経済学?

餓えないように。とにかく、みんながより良い暮らしをするためには、がテーマ、それが経済。イェー。

経済、英語で言うとEconomyなのだけど、こちらの語源も面白い。
Ecoはギリシャ語ではOikos(住処)、Nomos(法・制度)を表していて、
住んでるところにどんな”法”を作るか、ということらしい。
ちなみに、Ecology(生態・環境)は、Oikos(住処)+Logos(論理、理由)を表し、
住んでるところはどんな仕組みになっているのか、ということ。

住んでるところの仕組み(もうすでにあるもの)を知った上で、
より住みやすい環境を、自分たちの手で法や制度を制定することによって、整える、という感じ?
だから本当は、環境と経済はものすごく密接な関係にあるのさ。

お金の匂い、しないよね。 

※レポート記事(全文)は、こちらのサイト(shopmadreのブログ)で読めます。

 

レポート(松本茂夫さんから)

中野先生への私信
「てらすくらす」 第1回の講義、お疲れ様でした。気まぐれな思い付きでお願いしたものの、予期せぬ大きさに事が運び、期待と不安が同居しているのが現状でした。しかし始まってみれば、中野先生やみなさんの熱意の賜物か、充実した時間がすごせたようです。さらに願わくば、受講者のみなさんからたくさんの疑問や意見が生まれて先生を悩ませてくれたらいいですね(失礼)。
そこで僕も第1回の講義を拝聴したことを契機に、普段からモヤモヤしている「経済学」や経済現象についての疑問を投げかけさせていただきたいと思います。もとより前提的な知識もない身ですので、的外れなことがあろうかと思いますがその時はご指摘いただければ幸いです。
まず第一に経済学を学ぶ目的を経済学者に欺かれないためという、現実主義的でかつ逆説的な動機を挙げられていることが印象的でした。ジョーン・ロビンソンという人がなぜそんなことをいったのか知りませんが、僕には、そのことが「経済学」の本質を或る意味で的確に表現しているように思えたからです。「経世済民」とは何とも大きな大義名分で、「人間の苦しみ」がどこにあって、それをどのように救うのか、それが最も知りたいところですが、往々にして大義名分とは胡散臭いもので、この時点で何かあるぞ、と疑いが生じることを如何ともすることができません。
齢を取ると先がないことをついつい意識してしまうせいか、可能性よりも不可能性、無限性よりも限界性、自由性よりも制約性といったいわば夢のない方に視点が向いてしまいますが、そういう視点からみると、その思考の中で、複雑な現実を単純化し抽象化して諸説を形成しているように見える「経済学」もそこに何らかの制約、限界が前提されているのではないか?もしそうだとしたらその前提をきっちり認識しておかないと「欺かれる」という事態は避けられないのではないだろうか?と思いました。それではその前提とは何なんでしょうか?それは僕にははっきりとは解らないのでうまく言えないのですが、科学的な思考の特性にあるのではないか?と予想しています。科学というものは現象の因果関係を分析することらしいのですが、自然科学が自然現象を対象とするように、「経済学」は人間の営む経済現象を対象とする科学であるとすると、そこから導きだされる結果をどう判断するのかは「経済学」とはちょっと位相のずれたところにあるのではないか?科学自体に価値判断の基準はないように思えるからです。それともそれも「経済学」の範疇にあるとしたら、その結果をどう表現するのか?という問題は「経済学」にとって随分複雑になるように思えます。例えば現在、資本主義の終焉、経済成長の終焉がいわれるとき、そこに僕らがイメージするのは、どこかマイナス色のかかったものになってしまいます。いままで増殖のイメージの中で喜びや生きがいといったポジティブなものを作っていた感覚をどう変更したらいいのか?これはポジティブに生きようとするものにとって欠かせない課題になると思えます。
へぼ将棋をしているとき、ちょっと時間をかけて次の一手を考えていると、よこから「下手な考え休むに似たり」とよく攪乱戦法を食らいます。だけどそれも一面当たっていて、定跡をしらないと無駄な時間ばかり費やしていることになってしまいます。そういう意味で「経済学」の定跡とでもいうべき前提をもっと踏まえておきたいと思っています。「経済学」そのものについて、また講義の中で機会があればご教示していただければありがたいです。次講を楽しみにしています。

松本 拝

 

ダイジェストムービー

*ダイジェストムービー(2分36秒)