レポート[Class01]第6回講義

夕方、ほっこりカフェ朴からの夕焼け

てらすくらすClass01 “経済学のめがねで現代をみる”がいよいよ最終回(第6回講義)を迎え、無事に終了しました。今回も、会場は彦根のまちなかにあるほっこりカフェ朴をお借りしました。今回も、受講者からのレポートと、最終回を終えての講師の中野先生から受講者にあてたメッセージをご紹介します。

> 高木あゆみさんから
> 松本茂夫さんから
> 中野桂さんから
> ダイジェストムービー
カフェ朴の中村さん

Report

Class01 “経済学のめがねで現代をみる” 第6回講義「いまさら聞けないマクロ経済」 2017.9.14

レポート(高木あゆみさんから)

今回で最後となったてらすくらす”経済学のめがねで現代をみる”。
なんだか煙に巻かれたような、そんな感覚を拭えずに終わった。毎度のことなが
ら、このレポートを読んでも当日の講義内容は全然伝わらないので、講義内容を
知りたい方は動画をご活用ください。

今回のテーマは、”いまさら聞けないマクロ経済学”。
残念なことに、ほぼ何を聞いても、どうしても、どうしても、「ふーん。」で終
わってしまう。そこから先に自分の中で何も繋がらない。だから何?てなってし
まう。まるでグレてしまったような状態である。私、多分、経済学のめがね、使
いこなせない。
経済学のめがねを使えるように努力する選択もあるけれど、多分それを選ばない、
少なくとも今の私は。第2回目のレポートでも書いたが、とにかく経済学はブラ
ックホールのように終わりのない存在に思えて仕方がないからである。理屈が理
解できなければ、それを世の中の事象に当てはめて考えることなど到底できるは
ずもなく、それをできたとしても、私の生活にプラスになるとは思えない(すみ
ません)。よほど時間をかけてより深く、時間をかけて学んでいけばいつか応用
できるようにもなるだろうし、国が変な政策を出した時に、誰かと議論ができる
ようになるかもしれない。でも、とにかくあまりにも途方もない時間がかかるこ
とが目に見えているので、私はそこのフィールドから降りることにする。
その代わりに、まともな経済学者が、世の中の様々な要素を考慮し、経済の本
来の意味である”経世済民”を実現するべく、冷静に、あくまでもニュートラル
な立場でより良い方向を、国のトップの人たちに、ちゃんと伝えて、国のトップ
の人たちはそれをちゃんと聞く耳を持って、ちゃんとそれを国民に伝えてくれる
ことを祈るばかりである。
こう言うと、他人事のように聞こえるかもしれない。でも、私たち一市民にもも
ちろんできることはあるはずだ。
まずは、選挙に行って意思表示をすることである。そのために、知ることをあき
らめないこと。まだまだ選挙の話題はデリケートな印象があるので、ぶつからず
に自分の意見を伝えるためにも、人との話し方も学ばなければならない。
次に、自分たちで成功事例をつくること。おそらく経済学でこれからの社会・経
済のあり方を、そのまともな経済学者が論ずるにしても、多種多様なサンプルが
必要になってくるはず(知らんけど)。そんな時に、自分たちがそれぞれ好きな
ことやって、それでいて”経済”が回っていて、自殺する人も少なくて、社会と
もちゃんと繋がっていて、宗教感(怪しさ)も少なくてあくまでもオープンな場
やコミュニティが提示できたら、(そしてある程度話題になれたら)たぶんそれ
はそれで日本全体の経済に影響を与えられるはず。
”コミュニティ”もおそらく、小さな地域に限定する必要はない。共通する価値
観を持った人間が定期的に寄り集まり(マルシェという単位でもありだと思う)、
それが幾層にも重なり合っているだけでもコミュニティと呼んでもいいはず。そ
の範囲がおそらく滋賀でいうと、”湖東””湖北””湖西””湖南”となんとな
くつながりがあり(もちろんそれよりも小さな単位はあるが)、そしてそれらを
まとめた大きな単位として”滋賀”というコミュニティがあったらそれでいいと
思う。その様子を見て自分以外の人間が、他人事と思うのか自分ごとと思うのか、
それはその人の判断に任せたらいいけれど、眉間にしわを寄せたり、誰かを呪っ
たりするのでもなく、ポジティブオーラを出しすぎるのでもなく、あくまでもニ
ュートラルで”なんかおもろそうやな”くらいに思わせる、”エサ”のようなも
のをチラ見せしながら、勝手に人が増えるように個々が得意なことをしていった
らいいはず(もちろんたまにちゃんと”学び”の機会を自分自身に与えながら)。
とにかく、そういう間接的なやり方でないと、私は何もできないし、そしてやっ
ぱりそういうことをやっていきたい、と改めて感じることになった6回だった。
あんまり講義内容を伝えられていなくてごめんなさい。

経済学のめがねは一旦そっと置いて、またかけたくなったらかけることにします。
てらすくらす次期講義もお楽しみに。

レポート(松本茂夫さんから)

テラスクラス01の講義が終了した。たった6回の受講で経済学の何たるかを理解できたとは、もちろん思っていない。というよりも、ますます何たるかが解らなくなったといったほうが適当な気もする。しかし、あっているかどうかの保証はべつとして、自分なりの経済学或いは経済学者のイメージ像を少し持つことができるようになったと思う。中野先生は第1回の講義の最初に、経済学を学ぶ目的をジョーン・ロビンソンの「経済学者に欺かれないため」という言葉をもって説明されたが、その意味が僕なりに、少し具体性をもって理解できるようになったということでもある。

僕の今までの経済学に対するイメージは、第1回のレポートにも書いたように、現実社会から経済現象と思われる事象を拾い上げ抽象化して、その構造や運動の法則を見出し、未来指標を現実社会に提供する学、といったものだった。そのイメージはそんなに的が外れているとは思えない。しかし今回、経済学で行われている分析的な作業をいくつか教えていただいて、そのイメージがある意味で、過大評価だったように感じられるようになった。過大評価ということは、経済学が未来を予測できるような、そんな完璧なものではないということだ。逆に言えば、人間と人間社会がいかに複雑で捉えどころがないものかということの再確認でもある。たくさんの情報や統計数値をもとに数学を利用して、現実社会の動態を捉えようとす現代経済学は、神に代わってこの世を制覇したがっているのではないかなどと勘ぐりたくもなった。それほど、理論上の説明の明晰さと現実の不確かさとの違いを感じてしまう。均衡、競争と独占、分業と交換、自由貿易など僕らが社会で漠然と行っていることを、数式やグラフで現し、効率性など合理性の観点から説明されると、なるほどなーと納得する一方、僕らがいかに不合理な幻想をいだいて行っているかが分る。この乖離。何か腑に落ちない感が残ってしまう。合理性、それって現実の一部のことでないの?合理性、それってあなたの幻想でないの?そんな疑問が次々湧いてくる。

中野先生曰く。だから「経済学者に欺かれないため」にと最初にいったでしょ。

なんだか「現在のメガネでみた経済学」になってしまったようだ。

講師からメッセージ(中野桂さんから)

受講生の皆さんへ

単発の講演会でもなく、大学のような15回の講義でもなく、という新しい枠組みの中で、私自身にとってもチャレンジングで、気づきの多い愉しい機会となりました。

受講生の皆様の最終アンケートも興味深く読まさせていただきました。

経済学者の思考方法というものに少しでも触れていただけたとしたら本望です。第1回目の講義で申し上げたとおり、彼らは単純なモデルからスタートして、徐々に様々な要素を取り入れて経済・社会の実相にいかに近づくのかという取り組みを、七転八倒しながら連綿と続けています。

しかしながら、現実はより複雑です。鉄腕アトムの例を挙げてお話ししたように、モデルでは描ききれなかったところ、捕らえきれなかったところに、人間社会の本質があるのかもしれません。

そしてまた現実は、ようやく捕まえられそうだと思うと、次の瞬間にするりと転変していくものでもあります。

最終回のテーマはマクロ経済学でしたが、実は大学院生時代に「マクロ経済学という学問は存在しない」ということをいう先生がいました。カナダ経済学会の会長も務めたBlackorby教授です。経済というのは、ひとりひとりの個人(企業を含む)の活動の積み重ねで、GDPとか失業率とかマクロ経済指標はその結果として立ち現れるに過ぎないというのです。

確かに、シェアリングエコノミーとか、ライフスタイルの変化があれば、当然それらの指標も変わってくるし、それらの指標の意味も変わってきます。GDPが高ければいいとか、失業率は低ければいいとかは、昭和な時代の解釈でしかないのかもしれません。

講義では紹介し忘れましたが、ロバート・ルーカスという経済学者が1970年代に「過去のデータ使って予測したって意味ないぜ」という批判を展開しました。これもまた、同様なことを指摘していると言えるでしょう。

今回の連続講座を通じて、こうした経済学者による経済学批判も含め、これまで積み重ねられてきた経済学者の営みを、部分的ではありますが、ご紹介してきました。こうしたことを知ることが、過度に彼らのいうことを鵜呑みにせず、自信を持って自分らしい暮らしを築くための礎になればと願っています。

知の探求の旅は続くはずです。良い旅を続けてください。

半年間ありがとうございました。

ダイジェストムービー

※準備中