レポート[Class01]第3回講義


Class01 “経済学のめがねで現代をみる”の第3回講義「自由貿易ってどうよ?」を、6月8日の夕刻、滋賀大学経済学部(彦根)生協カフェ「ラグーナ」にて行いました。前回にひきつづき、参加者からのレポートをご紹介します。

> 北岡晴道さんから
> 高木あゆみさんから
> 山下智広さんから
> 松本茂夫さんから
> ダイジェストムービー

Report

Class01 “経済学のめがねで現代をみる” 第3回講義「自由貿易ってどうよ?」 2017.6.8


レポート(北岡晴道さんから)

「貿易赤字は決してマイナスな事ではない」や「中国の経済発展は脅威ではない」という言葉を聞いて、概念が凄く変わりました。
今までの情報の入手に少し偏りがあったのかもしれなくて、これからはテレビなどからではなく、「知るため」にどのようにその事実を知るか、どのように情報を自分のものにするのか、模索して行きたいです!
晴道

レポート(高木あゆみさんから)

今回もまたまたモヤっとして幕を閉じたてらすくらす。
一つわかったのは、私は効率性を求めるのが苦手だということ、もう1つ分かったのは、語る規模が大きくなればなるほど、はてなマークしか浮かばなくなること、である。
何て身勝手な感想だろう、と自分自身でも思うのだが、高校時代に物理の授業がどれだけ教科書を読んでもさっぱり意味がわからなかったのと同じくらい、”効率性”と”規模の大きな世界”はどうにもピンとこないようだ。

理解できなかった部分は置いておいて、今回の講義を受けて私なりに”(自由)貿易”について考えてみたいと思う。
まず、言葉の面から。貿易は英語でTrade(トレード。)。しかしこのTradeという言葉は”交換”という意味でもある。規模は全然違うのに、同じ言葉で表される。つまりは、貿易というのは”規模の大きな交換”という感じになる。
日本という島国で暮らしてきた農耕民族の感覚と、大陸で暮らしてきた遊牧民族の感覚の違いもあるのかもしれない。
日本では貿易というと、海を渡るのでハードルが高いけど、もともと移動するのが基本で陸続きだと交換と貿易の境目はあまりないのかもしれない。

もう一つ面白かった、というかしっくりきたのが、交換(Trade)の利益に関する話。
例えば、海の近くに住む男がいるとする。魚釣りに行ったとして、魚釣れたら、1匹目嬉しい。2匹目も嬉しい。3匹目ももし家族がいてたら嬉しい。その後、4匹、5匹、6匹とどんどん釣れた数が増えたとしても、まぁしばらくは干したり色々加工してみたり、と嬉しいものだが、あまりにもたくさんになると、”嬉しい”を超えて、”ありがた迷惑”的な状態になってしまう。釣り終わってたくさんの魚を見て途方に暮れる。でも、プランクトンがいっぱいなのかなぜだかたくさん釣れる。
しかし、自分にとってはいっぱいすぎてもういらない状態でも、別の誰かに渡すと、その誰かにとってはまた嬉しい”1匹目”になる。”おすそ分け”がお互い嬉しい仕組みはここにある。
この時点ではまだTradeではない。
一方で山に住むキノコ採りの名人がいたとする。山にキノコ採りに行ったとして、キノコが採れたら1つ目のキノコは嬉しく、数が増えるにつれ嬉しさを増していくのだが、ある地点で、嬉しさは増えることがなくなる。しかし、別の誰かに渡すと、その誰かにとったら嬉しい1つ目のキノコになる。
その誰かと誰かが、ちょうど条件が合致した時に、お互いに嬉しい”交換”が成立することになる。
おそらくこんな感じだ。
海の男:「魚、いっぱい釣れたんやけど、いらんか?」
山の男「お、それは嬉しい。ほなかわりにキノコ、いるか?キノコうまいんやけど、毎日キノコばっかりやで、そろそろちゃうもん食べたかったんや。どうや、交換せんか?」
海の男「そりゃえぇのぅ。キノコなんて珍しいもんありがたいことや!こっちは毎日魚ざんまい、そりゃもちろんうまいんやけど、毎日はなぁ〜。喜んでもらえるんなら嬉しいわ。じゃぁ魚とキノコと交換や!」
山の男「やったー!」
(妄想終了)
これが、もっと規模が大きくなって、国を跨いで交渉したりすることになったら、「貿易」になるのだと思われる。
しかし、なんとなく、なんとなくだが、現代社会で一般的に行われている「貿易」や「取引」のイメージは少しちがうように感じる。なぜだかそこにはネガティブイメージがつきまとう。実際はそこまでネガティブじゃないと思われるのだが、どうしても海の男と山の男のような純粋に「嬉しい」交換ではないような気がする。それは何か。
おそらくそれは、貿易もしくは交換が行われる2者の関係性が、海の男と山の男はgive & giveの、そして一般的な貿易はgive & takeであるからかと思われる。”あげる”前提か、”もらう”前提か。「あれあげたら、なんかもらった。/なんかもらったから、あれあげた。」か、「あなたのこれが欲しいから私はこれをあげる。/これあげるから、それください。」か。
国単位だと、give & giveはきっと難しいんだろうと推測する。国単位、まではいかなくとも、規模がでかくなればなるほど、どうしても一律したサービスを提供するためにはgive & takeの必要性が出てくるのだろう。そしてgive & takeだからこそ、ある意味平和が保たれているのかもしれない。
少し余談にはなるが、この感覚の違い、ドネーションスタイル(サービスを受ける側が価格を決めて支払う仕組み)で体感できるのだ。私は過去に何度か、実験的にドネーションスタイルで料理を提供・出店してきた。普段の買い物だと、お金を支払っているという感覚で、あまり”交換している”という感覚はないと思われる。しかし、食べる側が値段を決めるとなると、不思議と一気に「交換」感が増す。売る側も、同じだ。しかも、先にお金を置いてから食べる量を決めるか、食べる分を先にとって食べてからお金を置くか、で感覚が変わる。提供する側も、先にお金をもらうか、あとでお金をもらうか、で感覚が変わる。だからなんなのか、という結論はまだないのだが、ここに消費者余剰・生産者余剰・社会的余剰を増やすヒントがあるのではないかと思っている。

本当は、講義の途中(第2部の質疑応答タイムでのバブルが起こった仕組みの説明あたり)から、”お金って増えてるってこと?(増えているとしか考えられない)”という壮大な思考テーマが生まれ、日本の貨幣の歴史について調べてみると興味深い点が多くてそちらも書きたいところだが、あまりにも長くなるので、今回は触れずにおく。
経済学のブラックホールにどんどんはまっていっている気がするのだが、いつか抜けられる、もしくは攻略できる日は来るのだろうか・・・(不安)

レポート(山下智広さんから)

今回の講義に参加して、回を重ねていくにつれてどんどん頭がほぐされていく感じがしました。少しずつ講義の流れや、先生の言いたい事、みんなの質問が前回よりもスッと入ってくる感覚を感じました。
講義の中で分業について学び、今までは分業というのは良い点しかないように思っていたけど、良くない点にも眼を向ける事ができました。
他にも貿易赤字は必ずしも悪ではないなど、言葉のイメージや、先入観によって自分の視野が狭くなってしまっている事に気づきました。
経済学は時代によって答えが変わる、と先生がおっしゃっていました。
今の答えに近づくには過去、現在、未来を多角的な視点で捉えて上手にバランスをとっていく必要があると思いました。
回を重ねて色々な視点を身に付ける事ができそうで楽しみです。

レポート(松本茂夫さんから)

今回のテーマは自由貿易についてですが、数年前からTPPの話が浮上して、それが僕らの仕事や生活に大きく関係するということで、このテーマについては関心度が高いと思います。現在ではアメリカがそれに参加しないという方向ですが、日本は是非ともTPPを推進したいといういことのようです。この問題については、賛否両論あるわけですが、今回はその基軸となる貿易についての経済学的な分析・見解を教えて頂くことになりました。
まず<貿易>とは英語の<trade>の訳ですが、他に<交換>とか<取引>といった訳もあるようです。僕のイメージでは貿易とは交換の一種には違いないが、僕らが一般に描く<交換>のイメージとはどこか、何か違うような気がします。そこの違いをまず明らかにしたいと思いました。
アダム・スミスは利益や富裕を生み出す<分業>の起因について、「人間の本性上のある性向」つまり「ある物を他の物と取引し、交易し、交換しようという性向」の必然的な帰結だと言っています。ただその性向が「人間性にそなわる本能のひとつ」なのか「理性とことばという人間能力の必然的な帰結」なのか?その問題は当面の研究主題には入らないとその探求を打ち切っています。たぶん<交換>という関係性の底には僕たちが言語によって成り立っているということと深い関係があるのでしょうが、スミスのいうようにここでは経済現象の分析前提とするしかありません。
分業の起因として交換があり、交換の拡張が分業を進展させ、分業の進展が更なる交換を促すというその運動において人類の経済は拡張・拡大してきたようです。僕らは交換というと、まずその基本構造を個人対個人というレベルにおいてイメージします。漁師のおっさんと杣人のおっさんとの交換といったように。自分にとって必要以上の量の魚を獲る漁師は、山でたくさんのキノコを取る杣人と知り合って、お互いの余剰品を交換しあう。そのことによってお互いが今まで以上の<豊富>を手に入れることができてうれしい。申し分のない原理です。しかしその原理は、いつしか交換のための分業や分業ゆえの交換となって拡張・拡大運動していき、漁師と杣人の間には、様々な人や職や仕組み、そして野望も介在し、複雑な構造となって僕らを翻弄していくように感じます。確かに<豊富>になった。しかし幸福感はあまり湧いてこない。そんな現在の生活実感が、自給自足的な生活を渇望させたり、ミニマリストという生活スタイルを選択する原因になっているのかもしれません。ただそういう実感も<豊富>性ゆえの実感であって、交換や分業を否定することはできないでしょう。

交換のレベルが大きくなると貿易ということになる。しかし貿易という交換には国家という壁があって、交換する経済主体に制約をかけている。だからリカードの比較優位説も十分には機能しないことになる。経済学的な効率分析では比較優位にもとずく自由貿易は高い利益をもたらすらしい。しかし国家は、関税措置や産業助成金などで自由貿易を阻害している。国家内部に様々な利害関係があること、また歴史的に形成されたその国家の文化的な基盤に影響が出る恐れがあるなどの理由があるから。<自由>貿易の自由とは、そういう国家という枠からの自由を意味するのだろう。
ところで僕の職とする農業もTPPなどによって自由貿易化されれば多大なる影響が出るとされている。ただその影響のシミュレーションは経済学者によって様々です。農産物の自由化は、多くの農業を壊滅させ、農業のはたす多面的機能もなくすことによって、国家、国民は多大なる不利益を被ることになるという経済学者もいれば、これをチャンスに付加価値の高い日本の農産物を輸出すれば勝ち残れる可能性は十分あるという経済学者もいます。どちらの予想もごもっともと思え、しかたないから僕はなるようになるさと思って喘いでいるのですが、自由と国家というちょっと位相の違う問題をそこに発見し、途方に暮れてしまいます。人類の経済活動はグローバル化し、物も人も金も世界中が血管のようにつながり、血液のように流れているという。にもかかわらず、国家はなければならないようにある。更なる貿易の自由化は、フラットな社会、均質な世界を形成していくかもしれないけれど、そのことによって<国家>として現れている人間の問題を解決していくことができるのだろうか?

ダイジェストムービー

レポート[Class02]第1回講義


5月27日に、大津・唐橋のmomo庵にて、Class02 “共感の経済でつくる未来”の第1回講義を行いました。こちらのページでは、参加者からのレポートをご紹介します。

> 坂本彩さんから
> 中谷志野舞さんから
> ダイジェストムービー
講師の熊野英介さん

Report

Class02 “共感の経済でつくる未来” 第1回講義 2017.5.27

当日タイムテーブル
レポート(坂本彩さんから)

都合で早退させてもらったため、中途半端な内容になってしまっています。
最後まで聞けていないので、誤解もあるかもしれないという前提で読んでください。

第1回目は、「2030年の未来を考える」という、「え?13年後。そこやん。」というテーマであった。いろいろ不安なことが起こっている社会だけれども、13年後は、まだ、そんなに大きなことは起こっていないのではないか。まあ、なんとかやっていけているのではないかと言う私の安易な想像は、前半の講義で、「やばいぞ。」という気持ちに変わった。

熊野さんは、「未来予測に必要な5要素」として、「人口動態」「地球環境動向」「資源枯渇動向」「技術革新」「社会的価値」をあげた。
「人口動態」…世界の人口は増える。日本の人口は減り、中身は高齢者が多い。
「地球環境動向」…気温上昇は年々加速し、森林が消失。2030年には、39億人が深刻な水ストレスに直面する。
「資源枯渇動向」…銅鉱石14年、鉄鉱石49年、オイルピークは2006年、食料は減産。

ここまで話されたところで、1回目のグループワーク。「2030年はどんな社会か?」と言うテーマ。私はもうビビッていたので、2030年に我が家の夫婦の会話を想像して絵に書いてみた。

私「今日、お水が足りないわ。」
夫「配給クーポン券ももうないし、ヤミで買ってくるわ。」
という会話。想像力が足りないので、戦後の日本のようになっている。
同じグループのみなさんは、そこまで悲観的ではなかったので、私がネガティブすぎるのかなあと思ったりした。

続いて、後半の講義再開。「技術革新」「社会的価値」について。
講義再開の最初に言われた話が印象的だった。
「人間は、人間のしたいことを選んでしてきた。したくないことはしてこなかった。それは、幸せになるために選んできた。なのに、いま、“衣食住足りて、不幸”になっている。」

幸せになると思ったら違ってた。この「幸せ」を何とするのか。と、私はメモしている。

「技術革新」…すでに始まっている、始まりかけている様々な技術革新のお話。すごいな、と思う。でも、それがどう幸せにつながるのか私にはまだイメージができなかった。
「社会的価値」…人間は未熟な状態で生まれる。まともにものが食べられるまで2~3年かかる。大声で泣く。居場所がばれたら虎とかに狙われるのに。そんな人間が発展していくためには、役割分担が必要だった。「狩をする人」「子どもをみるひと」など。人間はサルに比べて白目の部分が多いという。それは、表情豊かにコミュニケーションをとるためだという。

私はこの話をきいて、「やっぱりここだ。」と思った。自分の仕事にひきつけて考えると、縄文時代の遺跡から、障害のある人が介護を受けて不自由な体のまま生きていたであろう遺骨が出てきている話を思い出した。縄文時代に、障害のある人と共同体の中でいっしょに生きていくためには、役割分担と、分配が機能していたということになる。自分で自分の食料を確保することも、食事をすることも、清潔を保持することもできなかったであろう障害者が生きていたのであるから、赤ちゃんの世話と同様に、役割分担がなされていたはずである。そして、この役割分担と分配を機能さすためには「共感」が必要である。他者の気持ちを想像して、コミュニケーションをとらなければ役割分担や分配はできない。まさに「共感で未来をつくる」だ。

そして、そのまま、2回目のグループワークになった。
テーマは「2030年からのバックキャスティング」。
私は、2030年に幸せな未来を作るために、自分はこれからなにをしようと考えた。

私はソーシャルワーカーである。なので、私は、「エンパワメントの視点を大切にしたソーシャルワーク」をしていこうと思った。エンパワメントとは、“自分が本来持っている生きる力を太らせていくこと”だと考える。それは他者を排除して自分だけが生き残るような力ではない。私たちはそもそも役割分担のために共感する力を身につけているはずだから、エンパワメントされることで本来の共感の力が復活し、深みを増していくような生きる力が太るはずである。それは、お互いの命に思いを寄せて、“自分たちの幸せ”に向けて合意形成をして、社会を作っていくことにつながるのではないか。そんな人たちがつくる社会の「幸せ」は、“衣食住足りて不幸になる。”という幸せとは違う“自分たちの幸せ”を見つけることができるのではないかと感じた。

坂本彩

講義中の様子

休憩の様子
レポート(中谷志野舞さんから)

最初に個人的なことから。
今年から夫の両親と同居することになった。同居の理由はズバリ、老後貧困の回避。義父母が独立した生計を立てることが難しくなり、家や車、そして諸々の生活費をシェアするため、同居を選択した。
が、同居の選択は他の問題も一緒に連れてきたのだった。
まずは介護の問題。今は2人とも元気だが、いつか体が不自由になる時が必ず来る。昔に比べ自治体の支援は充実しているものの、最終的には家族、特に嫁が面倒をみると世間、そして義父母自身が特に疑問もなく考えていることに、ものすごく違和感を感じた。どう考えたって、ひとつの家族や個人に押し付けられることじゃないだろうと。
もうひとつは仕事の問題、というよりも働くことの問題と言ったほうが良いかもしれない。
同居をきっかけに、約7年振りに仕事を始めた。接客・販売という今まで経験したことのない分野だが(アルバイトは除く)、お客さんとのやり取りやお金の管理を通じて、ものを売ることはおもしろいと感じるようになった。また自分の生活や考え方にフィードバックされることも多く、働くことは社会と関わることの方法のひとつ、を実感している。
が、その一方で夫は過労で休職をくり返し、私は扶養に収まるようにパート雇用に甘んじる、この働き方のバランスの悪さに、どんどん疑問が大きくなってきた。
金融危機が来るたびに、リストラ、早期退職、新規・中途不採用という雇用調整される私たちとは、いったい何者なんだろう、と。
なので熊野さんから「工業の使命は人間を喰いものにすること。人間と自然をコスト(経費)と考えることが常識になった近代社会では誤作動が起こり続けるのは当たり前」と聞いたときにすべてが腑に落ちてきた。工業によって文明化を進めてきた近代社会で生きている私たちは、もはや生身の血の通った人間ですらなく、お金に置き換えられ消費され、最終的にゴミとして廃棄されるような存在だったのだ。だから平気で切り捨てられる、、、納得。
人間らしく生きられない上に、すべてのリスクは個人に押し付け自己責任で済まそうとするこの社会。やっぱりおかしいし、このままじゃ嫌だと思う。生きている以上、幸せに生きていきたいと思うし、そして幸せというのは自分ひとりが幸せでもダメで、みんなが幸せに生きることで回り回って実感できるものだと思う。
みんな(人間だけじゃなくて、動物や植物、生命を持っているものすべて!)が幸せな未来を実現するために、熊野さんの叡智からたくさんのことを学んでいけたら、と思っています。

中谷 志野舞

 

チシンさん(BFR)によるコーヒードリップ

ダイジェストムービー

 

(おまけ)すきまの時間

* *

玄関を掃除してくださるななつさん
懇親会の様子
唐橋からの瀬田川と琵琶湖

レポート[Class01]第2回講義

Class01 “経済学のめがねで現代をみる”の第2回講義を、5月11日の夕刻、滋賀大学経済学部(彦根)生協カフェ「ラグーナ」にて行いました。前回にひきつづき、参加者からのレポートをご紹介します。

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> 松本茂夫さんから
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Report

Class01 “経済学のめがねで現代をみる” 第2回講義 2017.5.11

レポート(高木あゆみさんから)

今回で2回目の講義。
今さらな感想だが、「経済学って、学問なんだなぁ。」とひしひしと感じたこの2回。
哲学的でありながら、数学的な側面も持ち、とにかく多面的。こんなにも経済学の中身は細分化されているとは思ってもいなかった。ただのお金・数字の話かと思っていたので、その奥深さに今更ながらに面食らっている。
今回も講義を聞きながら、まるで「とんち」を聞かされているようで、頭の中で、「ぽくぽくぽくぽく…チーン」という音とともに一休さんを思い浮かべずにはいられない状態だった。
そもそも経済学とは何か、が第1回目の講座のテーマだったのだけど、どうやら私はまだそこにいるようだ。
今回登場した「アローの不可能性定理」(それぞれみんなの好みや価値観が異なる集団においては全員が100%幸せになるということは起こりえない、ということが、”数学的に”証明されているらしい。)も、興味深いと同時に、そもそもこの定理が経済学の一部である、ということが、不思議な恐怖感というか、経済学のブラックホール感を感じてちょっと足がすくむ。「経済学、本当に学んでいいのか?終わりはないよ?」と言われているような気がしてくる。
しかし、そもそも経済の定義が、「経世済民=世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)う」なので、それを探求する学問であるとすると、なるほど納得はするのである。そりゃ、価値観なんて時代とともに変化をし続けるし、その全て知り尽くすなんて到底不可能なのだ。
(余談ではあるが、先日、生まれて初めて行った民俗博物館のオセアニアのブースに1mを超える大きくて重そうな石でできた”貨幣”の展示があり、”家を建ててもらったらお礼に差し出す貨幣である”と説明が書かれていた。これを見た私は、「こんな重くてでっかいもんもらってどうすんの!?嬉しいんか!?いらんし!」と思ってしまったのである。それくらい、”価値観”は変化している。)
と、思うと、もう逆に諦めがついていいのかもしれない。

そして、今回の講義のテーマは”競争と独占どっちがまし?”だったのだけど、先述のアローの不可能性定理における「みんなの好みや価値観」(=数字・実数(価格とか量とか)として表しきれない、虚数)の部分が、結局のところモノの価値(”価値観”なのだから当然)を大きく左右しているのだ、ということが繰り返し語られていたような気がする。つまり虚数は競争をコントロール、とまではいかないとしても影響を与えることができる、ということだと思われる。
それをちょっと説明したい。
虚数(モノと人や社会との関係性?位置付けのようなもの?例えば、人々や世の中にとって必要かどうかとか?)は大きな威力を持っているものの、なんといっても見えない部分が多い(虚数=imaginary numberだからね)ので、それを実感するのは容易ではない。食の分野で言えば、ここ10年くらい言われている「トレーサビリティー(顔の見える関係)」や「オーガニック(見た目では分からない、食べてもわからないかもしれないし、証明するのも難しい)」「フェアトレード(児童労働や不当労働ではなく、正当な価格で取引すること。チョコレートやコーヒーでよく知られている。がこちらも証明が難しい)」、最近では食以外のファッション業界でも「エシカル」なども、おそらくこの「虚数」的な位置づけなのだと思う。
この「虚数」が、ものの値段を変えたり、ある意味生産者側を、経済をコントロールできる、たぶん。
じゃぁ、どうやって虚数を生産者側に示して実際に影響を与えることができるのか。
1つは、実際の購買運動である。小さな影響かもしれないけれど、おそらくボディブロー的に効いていくはず。消費者側の価値観の変化を示すことができれば(売れなくなれば)企業も変わらずを得ない。
もう1つは、選挙である。何度も言うようだが、経済の本来の意味は「世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)う」ことで、そうあるはずだしそうあってほしい。どんな世の中であってほしいか、というか自分がどんな暮らしをしたいか、をよく考えて投票に行くことが結果的に経済にも影響を与えることになるのである。

とはいえ、自分がそうやって世の中に、経済に影響を与えていると実感する機会はなかなか持てない。
小さくても、世の中の価値観を作ることに自分も少なからず影響していることがもっと分かりやすく実感できると、おそらくもっとやる気が出るのだろうけど。どうすればそれを実現できるのだろうか?
自分でお店をする?いろんな人を呼んでマーケットを開催する?とても分かりやすいがハードルの高い選択肢だと思われる。
きっと他にもいろんな方法が存在するはずだ。それを探ることも頭に置きつつ、3回目以降の講義に臨みたい。

高木あゆみ


レポート(北岡晴道さんから)

第2回が終わりました。
【競争と独占】というテーマでした。
学校で習ったことなどを掘り起こしながら、頭をフル稼働させて聞いていました(笑)
少しづつ回を重ねるうちに経済の本質とはどのようなものかというのを探して行きたいです。
北岡晴道


レポート(松本茂夫さんから)

今回のテーマに入る前に、前回の講義についてのいくつかの質問に答えていただきました。ひとつは「経済学」そのものについてです。それは科学である「経済学」に、人間の複雑な「価値観」を判断できるのだろうか?という単純な僕の愚問に応えていただいたことになると思います。そもそもその愚問の始まりは、経済学の本来の意味が「経世済民」という中国の古典思想の翻訳からきているという、いわば語源についての解釈を経済学の定義と勘違いしたところにあるようです。
「経世済民」とは、現代でいえば経済学、政治学、社会学などといった分化された学問の総合的な考え方になるのかもしれません。学問などというよりも、もっと現実的な治世方法のことだったのかもしれない。まあ愚問の始まりはともかくとして、本当に問いたかったのは客観的な現象を分析する科学の立場と現実的な立場の関係についてです。中野先生は、ケネス・アロウ―の不可能性の定理という、たぶん僕などが読んでもちんぷんかんぷんの考え方を例に出して、経済学が、或いは経済学者が現実社会の中の価値感に対して判断を下すことは出来ないと結論付けられました。このことは言い換えると、経済学が「学」としてもっている前提をこえることは出来ないということなのだろうか?と思いました。前提というのは科学という客観分析ということですが、この問題については、もっと複雑な経路があって、それを再考しながら経済学の位置づけを考える必要があるのではないかと思います。経済学は人間社会の変遷とともにその在り方を変えているし、また経済学者の個性がその経済学と無関係にあるようにも思えないからです。また機会があれば教えていただきたいとおもいます。
次に陽と陰という区分けについての質問です。ものの見方として、様々な対象を陽と陰という中国の考え方をもとに対称化することにどんな狙いがあるのか?
はしばらく置くとして、ここに区分けされたものがマクロビの世界では反対になったりする場合があるのはなぜか?という質問が出ました。これは区分けの基軸をどこに求めるかによって逆の位置に来ることもあるという現れでもあります。
もともとの中国の陰陽の対称化の基軸がどこに設けられているかは別にして、この世の物事・現象を二項化して考えようとする人間の在り方に対する批判のモデルとして現されたのだろうか?たとえばグローバルということ。科学・技術の進歩によって僕らの周辺環境は世界規模に関係拡大していることは確かです。しかしローカルといわれるように、現実の身が狭い地域に限定されていることも確かです。何か問題が起こった時にどちらを優先するのか?この「課題解決の方法論」としてあげられたのだろうか?対立するもののどちらかを単純に選択するということではなく、その内容をよく吟味して対立を超えたものを創出していく。なんか弁証法の講義のように聞こえますが、市場経済ばかり肥大する現実批判として出されたものなんですか、中野先生。

次に今回の講義の本題へと入っていくことになりますが、それにしてもレジュメにはバッテンばかりが描かれていて、既に拒絶されているような気分になります。このバッテンが「均衡」ということを表すための図らしい。ところで均衡とはなんなんだろう。普通は、つりあいがとれた状態をいうので、需要と供給とのつりあいがとれることを現すのだろうか。均衡があるということは不均衡もあるということなのでその状態の変化を図示して考えようということかなと思いました。経済学、特に近代経済学では市場社会の経済現象、つまり物の生産、販売、購買、等々の動きを、このバッテンの図によって考察するらしい。もちろん市場には<均衡がある>と仮定されている。というよりなければならんという信念があるといったほうがいいだろうか。なければバッテンの図は書けない。書く意味がない。市場経済学の存在根拠がここにあるといえるようにも思いました。「均衡」点とは需要と供給の合致、理想状態を現し、そこにおいて<効率性>が最もよく<社会的余剰>が最大になるということらしい。だからこの点を如何にして創り出すか、その方法を考えるのも経済学の使命ということになるのだろうか。ところで<社会的余剰>とはなんだろう?だれかさんが<お得感のようなもんですか>とおっしゃった。確かにそんなもんかもしれないけれど、どんなお得感なのかをいうのは難しい。「効率的な資源配分」という言い方も分ったようで分からないですね。
この考え方はごちゃごちゃ入り組んだ現実から、たくさんのことを取っ払って現されているので、その結果を現実に還元しようとするときにかなり注意しなければならないのだと思いますが、これを現実的なものとしてイメージ化できないと経済学を学ぶ意味があまりないように思えます。
さて市場では供給側において競争と独占というバトルが演じられることになる。
需要側からみれば大いに競争してくれるほうがいい。どんな競争かというと、よりいいものをより安く提供するという競争です。しかし供給側は独占をめざして競争しているようにしかみえない。他のものが追随できないちがうものをより高く売るという競争。そんな風にかんがえてみると、競争と独占て対立概念なんだろうかという疑問がわいてくる。競争とは需要側から見る欲望であり、独占とは供給側からみる欲望であって、実は同じもののように見えるのです。結局、同一人間が需要と供給に分化し、対立項となってしまうところに問題があるのではないか。しかし市場原理を前提とする経済学ではそれは問題にならない。競争は前提だから。経済学の客観的分析では、独占は<市場の独占>という<衡平性の問題>と<総余剰が小さくなる>という<効率性の問題>なのだそうだ。だからこの問題を調節するために政治が介入することになる。

しかし何か腑に落ちないものがのこってしまうなー。

もう一つ感想があった。
複素数思考ということ。
昔、2乗してー1になる虚数というのが数学にでてきたときにたまげたことを思い出しました。あるわけがないものを、なんで作り出して考えるのか、さっぱりわからなかった。取り付く糸口も皆無の状態で勉強するのは苦役以外のものではなく、すぐ放り出してしまった。今回、複素数思考ということで、それを人間の感情など実数化できないけれども経済に影響をもっているものを複素数として表すということを教えていただいて、虚数の存在意味を知ることが出来ました。たぶん読みこなせないとおもいますが、「複素数思考とはなにか。」という本、読んでみたいと思います。


レポート(有本忍さんから)

中野クラス第2回の感想
今回一番心に残った、引っかかったこと
「協力がないと競争がなりたたない」
「貨幣は距離や時間を超えてつかえるが 一旦分断をしてから交換をするため関係性を壊しやすく、地域通貨がうまくいかないのは通貨に変えるため」
「定量化できない虚数」
「企業は市場か」
対立の中で競争が生まれると勘違いしていた。
上に行くか下に行くかどこに向かうかわからない虚数、でもこれからは数値化できないものに価値を見出し、活かして行くことで生きていくことがよいとおもってしまった。
大事な人との大事な時間を過ごすこと。お金の発生がなくても 自分の経験値が増すこと
虚数は数値にできないだけでなく 誰かに取られないものが多いような気がします。
また命に関わることは 競争ではない方がよい。
水や食物資源などは 独占ではなく 共通して皆で使え、安心して命を守れるようになればいいと思います。
また会社は公器と教えてもらったことがありますが
もちろん企業は市場でしょうが とても危険な要素をたくさん含んでいると思っています。
企業が市場を潰すことも 歪めた市場を作ることもある。諸刃の剣だと。
しかし社会が企業を抹殺できる、どのように選択してどのような常識に変えていけるかも私たち個人の力が実は大きいことを私たち自身が知る必要がある。

質問
中野先生のご存じな中で、もっとうまく活用できる地域通貨というか地域にきちんとお金が回る良い事例が知りたい。
またそれは 似たようなことを小さなつながりから始めることは可能なのか。
(国内外含め)
アローの不可能性定理をお聞きしても
ぼんやりした内容であれば 個人の幸せが社会みんなの幸せと同じだと やっぱり願いたいと思います。
こんな風に 日々働いてることを分割して説明をしていただけると
なるほどと納得したり 会社経営の日々の作業の中との矛盾を感じたりできるので とても面白いです。
第3回も楽しみにしています。
一度少し参加者同士も含め対話できる時間を持てればいいですね。
聞いた講義の質問のや認識があってるかの確認などが共有できるといいのですけど。
せめて その後もう一度動画を見ていただいてからでいいので
もう少し 本当に理解できてるか知りたいと思います。


ダイジェストムービー

てらすくらす Class01 “経済学のめがねで現代をみる”(第2回講義)

レポート[Class01]第1回講義

4月13日に、滋賀大学経済学部(彦根)生協カフェ「ラグーナ」にて、Class01 “経済学のめがねで現代をみる”の第1回講義を行いました。こちらのページでは、参加者からのレポートをご紹介します。

> 北岡晴道さんから
> 高木あゆみさんから
> 松本茂夫さんから
> ダイジェストムービー

Report

Class01 “経済学のめがねで現代をみる” 第1回講義 2017.4.13

レポート(北岡晴道さんから)

今までのイメージや認識が大きく覆るような
そんな衝撃があった第1回の講義でした。
高校2年のこの時期に大学の先生からお話を
聞けたことはとっても貴重な経験になりまし
た。第2回が楽しみです。
北岡 晴道

 

レポート(高木あゆみさんから)
(写真)shopmadreのブログより

⇒ここでは、高木さんが書かれたレポート記事(shopmadreのブログ)の中から、一部を抜粋して掲載させてもらいます。

“ で、一回目。
テーマは、”そもそも経済学ってなに?”
経済。

たぶん、割とたくさんの人が、経済はお金のことやと思う気がする。少なくとも私はそう思っていた。
世の中の、お金の動き・流れ、それが経済OK

が、どうやらそれはちがうらしい。
ちがう、というか、それも経済の一つであるけど、”経済”というものの、ほんの一部分にしか過ぎない。

じゃぁ、そもそも一体経済って何やねん、というと、
”経世済民”= 世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)う
を略したのが、経済のほんまの意味なんやってさ

お金、関係ない。
どちらかというと、仕組み?概念?

人が(”喧嘩をしたとしても”だと個人的には思う)にこにこ暮らせるようにするためにはどうしたらいいのか、
を問うものなのかな、経済学?

餓えないように。とにかく、みんながより良い暮らしをするためには、がテーマ、それが経済。イェー。

経済、英語で言うとEconomyなのだけど、こちらの語源も面白い。
Ecoはギリシャ語ではOikos(住処)、Nomos(法・制度)を表していて、
住んでるところにどんな”法”を作るか、ということらしい。
ちなみに、Ecology(生態・環境)は、Oikos(住処)+Logos(論理、理由)を表し、
住んでるところはどんな仕組みになっているのか、ということ。

住んでるところの仕組み(もうすでにあるもの)を知った上で、
より住みやすい環境を、自分たちの手で法や制度を制定することによって、整える、という感じ?
だから本当は、環境と経済はものすごく密接な関係にあるのさ。

お金の匂い、しないよね。 

※レポート記事(全文)は、こちらのサイト(shopmadreのブログ)で読めます。

 

レポート(松本茂夫さんから)

中野先生への私信
「てらすくらす」 第1回の講義、お疲れ様でした。気まぐれな思い付きでお願いしたものの、予期せぬ大きさに事が運び、期待と不安が同居しているのが現状でした。しかし始まってみれば、中野先生やみなさんの熱意の賜物か、充実した時間がすごせたようです。さらに願わくば、受講者のみなさんからたくさんの疑問や意見が生まれて先生を悩ませてくれたらいいですね(失礼)。
そこで僕も第1回の講義を拝聴したことを契機に、普段からモヤモヤしている「経済学」や経済現象についての疑問を投げかけさせていただきたいと思います。もとより前提的な知識もない身ですので、的外れなことがあろうかと思いますがその時はご指摘いただければ幸いです。
まず第一に経済学を学ぶ目的を経済学者に欺かれないためという、現実主義的でかつ逆説的な動機を挙げられていることが印象的でした。ジョーン・ロビンソンという人がなぜそんなことをいったのか知りませんが、僕には、そのことが「経済学」の本質を或る意味で的確に表現しているように思えたからです。「経世済民」とは何とも大きな大義名分で、「人間の苦しみ」がどこにあって、それをどのように救うのか、それが最も知りたいところですが、往々にして大義名分とは胡散臭いもので、この時点で何かあるぞ、と疑いが生じることを如何ともすることができません。
齢を取ると先がないことをついつい意識してしまうせいか、可能性よりも不可能性、無限性よりも限界性、自由性よりも制約性といったいわば夢のない方に視点が向いてしまいますが、そういう視点からみると、その思考の中で、複雑な現実を単純化し抽象化して諸説を形成しているように見える「経済学」もそこに何らかの制約、限界が前提されているのではないか?もしそうだとしたらその前提をきっちり認識しておかないと「欺かれる」という事態は避けられないのではないだろうか?と思いました。それではその前提とは何なんでしょうか?それは僕にははっきりとは解らないのでうまく言えないのですが、科学的な思考の特性にあるのではないか?と予想しています。科学というものは現象の因果関係を分析することらしいのですが、自然科学が自然現象を対象とするように、「経済学」は人間の営む経済現象を対象とする科学であるとすると、そこから導きだされる結果をどう判断するのかは「経済学」とはちょっと位相のずれたところにあるのではないか?科学自体に価値判断の基準はないように思えるからです。それともそれも「経済学」の範疇にあるとしたら、その結果をどう表現するのか?という問題は「経済学」にとって随分複雑になるように思えます。例えば現在、資本主義の終焉、経済成長の終焉がいわれるとき、そこに僕らがイメージするのは、どこかマイナス色のかかったものになってしまいます。いままで増殖のイメージの中で喜びや生きがいといったポジティブなものを作っていた感覚をどう変更したらいいのか?これはポジティブに生きようとするものにとって欠かせない課題になると思えます。
へぼ将棋をしているとき、ちょっと時間をかけて次の一手を考えていると、よこから「下手な考え休むに似たり」とよく攪乱戦法を食らいます。だけどそれも一面当たっていて、定跡をしらないと無駄な時間ばかり費やしていることになってしまいます。そういう意味で「経済学」の定跡とでもいうべき前提をもっと踏まえておきたいと思っています。「経済学」そのものについて、また講義の中で機会があればご教示していただければありがたいです。次講を楽しみにしています。

松本 拝

 

ダイジェストムービー

*ダイジェストムービー(2分36秒)

いよいよ、はじまりました~(Class01)

記念すべき第1回講義は・・

中野桂さん(滋賀大学経済学部教授)を講師に迎えたClass01 “経済学のめがねで現代をみる”でした。(全6回)

桜が咲き乱れる彦根城のお堀沿いにある滋賀大学経済学部のカフェテリアにて、4月13日に開催しました。